「そうしたらね、ジョーったら…」
紅茶を飲みながら、テーブルの向こうで妹が話をしている。
俺が仕事から帰ってきて、食事をして、お茶を入れて、新聞を読んで、
その間ずっと同じ名前を何度も何度も何度も繰り返し口にしては、
にこにこと喋り続けている。
そう言えば、こいつの口から男の名前を聞くのは”ジョー”が
初めてじゃなかろうか。
…もう一生分聞いたような気はするが。
「お兄ちゃん?聞いてる?」
いい加減面倒になって、相槌を打つのすら止めた事にやっと
気がついたらしい。
フランソワーズが新聞の端を引っ張って、こちらを覗き込む。
一瞬目が合った。
兄妹揃って親譲りの蒼い目が、少し怒った色を滲ませる。
今は、人工の瞳なんだと聞いたが、見たところ前と違うような気はしない。
「…ジョーがどうしたって?」
本日5度目のセリフを吐くと、妹はまた楽しそうに話を続ける。
その様子をちらっと横目で確認して、新聞の影でこっそり溜息をついた。
ここ一週間というもの、毎晩同じことを繰り返している。
喋りたいだけなら、そこの人形でも何でも相手に、勝手に喋れば
いいだろうと言うと、お兄ちゃんだから話すのよ、とあっさり返してくる。
変だろう、それは。普通、兄貴にここまでノロケ話を聞かせるか?
ノロケに至るまでの事情が複雑すぎて、他に話す相手がいないというのは
俺だって理解しているし、楽しそうに話すのをわざわざ遮る理由もない。
それでも、小さい頃から可愛がって面倒を見てきた妹が
自分の知らない男の話を楽しそうにしているのをここまでしつこく見せられると
こちらとしては複雑な気分だ。というよりもう勘弁して欲しい。
お前は本当に、俺の前で自分の男の話をする事に何の躊躇も感じないのか。
例えば、
と、そこでふと思い当たった。
これは、生きていれば俺達の親父が感じる筈だった気持ちなのだろう。
大事に育てた娘が、どこかの馬の骨にかっさらわれそうな危機感。
親父だったらこんな時、どう言ったかな…と考えてみたが、
「じゃじゃ馬には馬の骨でも十分だ」と笑い飛ばしそうな気がする。
別に、俺はじゃじゃ馬に育てた覚えはないんだ。結果として、そうなっただけで。
それは育てた俺の責任というより、親からの遺伝の問題だろうと思う。
両親が生きていた頃から、妹の世話は殆ど俺がやっていた。
だから、多分親父よりも俺の方が腹が立つんだろう。
目の前の小娘は、そんな事に気づかない風で話を続ける。
ああ本当に父親の気分だ。俺はそんなに年を取っちまったのか。
こいつはあの日から、全く変わっていないのに。
コンクールで入賞し、憧れだったバレエ学校へ入学したその年に
妹のフランソワーズは行方不明になった。俺の目の前で、誘拐された。
両親はとっくに亡くなり、たった一人の妹を失った俺は、発狂しそうな思いで
必死に行方を探したが、結局見つからなかった。
それが、2年程たってひょっこりと帰って来た。「記憶喪失」になって。
周囲がいくら問いつめても、フランソワーズは何一つ覚えてないと言い張った。
何もない筈はないだろう。それは俺を含めた全員が思っている事だった。
吐き出した方が楽になる事もあるだろうし、それまで同情していた周囲の視線が
徐々に冷ややかに変わっていくのも感じられたが、それでも妹は何も言わなかった。
それでも無事に戻ってくれただけで、俺は十分嬉しかった。
なのに。
しばらくして、妹はまた行方不明になった。これもまた、憧れの舞台に立てた、と
喜んでいたその日の夜だった。舞台が終わった後、友人と待ち合わせがあると言って
出ていったフランソワーズを、俺はずっと車で待っていた。
しかし、そのまま戻って来なかった。
慌てて妹の友人達にも確認したが、誰も待ち合わせの事は聞いていないと言う。
探しあぐねて夜遅くに家へ帰ってくると、留守電にフランソワーズの
メッセージが入っていた。
「大切な人に、着いて行くことに決めました。突然でごめんなさい」
少し遠かったが、とても落ち着いた声だった。
それきり、何の連絡もなく10年以上が過ぎたある日。
フランソワーズはまた突然戻ってきた。以前と全く同じ姿のまま。
フランソワーズがぽつりぽつりと話す内容は、あまり頭には入らなかった。
それよりも、その言いにくそうな、辛そうな表情だけが心に残った。
最初に誘拐された時の事。改造された事。戦いの事。仲間の事。
一度戻って来て俺に会った時、本当に嬉しかった事。
そして、また自分で決めて、ここを出ていった時の事。
時が経つにつれ、パリへ帰るのが怖くなった事。
ここを遠くから一目見るだけで、黙って帰るつもりだった事。
こいつなりに悩んだのだろう、過去を話す表情がどことなく大人びていた。
見た目は全く変わらない、10代の少女のままだったが。
お兄ちゃんは随分大人になったね。
大して年齢が違わない筈の妹が言った。俺は世間ではもうオヤジと呼ばれる年だ。
俺をしげしげと眺める目に、懐かしさと寂しさが入り交じって
とても人工物とは思えないような、複雑な色彩を生み出した。
あたしはね、もう年をとらないの。…とれないの。
この体は、昔とは違うの。
お兄ちゃんと同じ色の瞳も髪も皮膚も、繋がった血も今は全部つくりもの。
でも、お兄ちゃんはあたしが無くしたもの、みんな持っててくれた。
お兄ちゃんを見てると、あたしも一緒に年をとってるみたいで
…何だか嬉しい。
その言葉が、とても遠い所から聞こえた気がする。
お前は何にも変わってない。だって今も、俺の妹なんだから。
抱きしめてそう言ってやりたいのに、どうしても言葉が出ない。
見た目はちっとも変わってない。そう、10年以上の昔の姿から
顔つきも体つきも髪の長さすら、全く変わってない。
それがつまり、普通に生きていた昔とは全く違う体だという事なのだ。
フランソワーズは黙っている俺を見つめて、それから悲しそうに微笑んだ。
「あたし、…帰るね」
そう言って静かに席を立った。
帰るって、どこに?お前の家はここだろう。
「ファンション」
不意に言葉が出た。
突然、子供の頃の愛称で呼ばれたフランソワーズが驚いた顔をする。
「お前の家は、ここだろう」
フランソワーズが大きく目を見開いて、固まっている。
「お兄ちゃんに迷惑かけたくないの。あたし、もう普通には…」
「普通じゃなくても何でもいい」
肩を掴んで、もう一度椅子に座らせる。
その目を見ながら、ゆっくりと言葉を吐いた。
そうだ、例え昔とすっかり変わってしまったとしても。
「お前は俺の妹だし、だからお前の家はここだろう。お前だって
いい大人なんだから、どこで何をしようが構わんがな。何かあった時に、
お前には心配しながら待ってる家族がいるんだって事を忘れるな」
迷惑をかけない、の方法が間違ってるんだお前は。
こんな当たり前の事、いい年して言わせるな。
「お兄ちゃん…」
じっと聞いていたフランソワーズが、不意に子供のような顔になった。
小さい頃、何かというと俺の後を付いてまわって頼ってきた時の顔だった。
そんな時にしていたように、俺も精一杯優しく微笑んだ。
「帰って来たくなったら、いつでもおいで。俺はここで、ずっと待っているから」
フランソワーズの目に涙が浮かぶ。何だ、ちゃんと泣けるんじゃないか。
俺をお兄ちゃんと呼んで、自分の頭で考えて話をして、
素直に感情を表して、…それで十分だ。
「ありがとう。でも…」
「何だ」
「でも、いつまでも私の心配ばかりしないで。あたしは、お兄ちゃんにも
幸せになって欲しいの」
「誰のせいで女運が逃げてると思ってるんだ」
「ん……ごめん。もう心配かけないように、ちゃんとするから。だから」
「それと、お兄ちゃんに『も』ってのは何だ?」
フランソワーズは、あ、と呟いて赤くなる。ちょっと待ておい、その展開は。
決まり悪そうに目を逸らしてもじもじする妹を黙って見つめる。
そう言えば、失踪した時もそんな事を言っていたな。
他の話に紛れてすっかり忘れかけていたが、思い出した途端に気になってきた。
早く続きを言ってみろ。
一語一句、漏らさないように聞いてやる。
しばらくして、フランソワーズが大きく息を吸って、思い切ったように
こちらに向き直った。
…が、そのまま大きく目を見開いて、それから俺を指さして笑い出した。
「お兄ちゃん…いやだ、さっきの話よりも今の方が真剣な顔してる」
笑い事じゃないこのバカ娘、と喉元まで出かかった声を呑み込んだ。
確かに、あの告白を聞いた時より、今この瞬間の方が俺は何より
切羽詰まった気分になっている。
人の気持ちも知らず、フランソワーズは笑い転げていた。俺は苦い顔になる。
「笑うなよ」
「だって…おかしいわよ、そんなの」
明るく響く笑い声に、俺もつられて笑い出した。どこまでも兄バカか、俺は。
それとも単なるバカ兄か。
ひとしきり笑った後、フランソワーズが涙を手の甲でぬぐいながら
俺を見て、小さく微笑んだ。
俺の記憶の中の、そのままの笑顔だった。
「でね、ジョーから連絡があって」
そうして今。こいつは浮かれて男の話に夢中になっている。
話せと言ったのは確かに俺なので、途中で席を立つ訳にもいかない。
最初は照れくさそうに、次第に楽しそうに、次から次へと言葉が飛び出す。
俺の知らない間に、知らない男と過ごした話をするのがそんなに楽しいか。
そりゃまぁ、話せないような事ばかりよりは随分マシではあるのだが
それにしても。
檻の中のクマのように、思考が行ったり来たりを繰り返す。
心に貯めていた事を全て吐き出すと、フランソワーズは嘘のように明るくなった。
昔の、気が強かった性格は随分丸くなり、女らしさが顔を覗かせている。
辛い事ばかりではなかったのだろう、その様子を見て少し安心した。
フランソワーズは、しばらくここに居てもいい?と言って、そのまま居着いた。
毎日家で俺の世話を焼き、そのままになっていた自分の部屋の手入れをし、
近所を歩き回ったと言っては楽しそうに笑う。
心なしか、やっと母親に似てきたような。
「明日パリに着くんですって」
「…何が着くって?」
新聞を眺めながらぼんやりあれこれ考えていた頭が、初めて妹の方へ向いた。
「ちゃんと聞いて。明日ジョーが来るの」
「この家に泊めるのか?」
「そのつもりだけど。ゲストルームのお掃除も、もうしちゃったもの」
「俺は、明日も仕事なんだが」
「だから早めに帰ってきてね。お兄ちゃんに紹介したいから」
選択の余地はないのよ、と顔に書いてある。
今まで聞き流していた様々な話が、急に具体性を帯びて聞こえた。
物語の中の人物が、突然飛び出して来るような錯覚を覚える。
フランソワーズの恋人。毎日毎日話しても飽き足りないくらい、
頭の中一杯に住み着いている男。
「会って欲しいのよ。私の、大切な人だから」
下の方の記事を読むフリをして、顔が見えないように新聞を高めに持ち上げる。
目を閉じて、大きく溜息をつく。
とうとう来たぞ、親父。
「…分かったよ」
本当なら、遅すぎるくらいなんだろうがな。
次の日の訓練は散々だった。演習だったら3度は死んでいたかもしれない。
休憩時間に顔を洗っていると、女にでも振られたのか、と同僚がからかって来た。
女に費やす時間も労力も、全て妹に注いだ俺の人生を知ってて言うな。
「妹が彼氏を紹介してくれるんだと」
と答えると、ついに世界の終わりが来たか、と大笑いされた。
「あの可愛い妹さんも、お年頃だからな。パパは心配でしょうがないんだろ」
あいつのどこがお年頃だ。お前の、子供を3人も抱えた嫁さんより年上だぞ。
「観念しろ。一生男を作らずに家で小姑されるよりは、多分マシだ」
一生…か。
何となく、今まで避けていた想像がぽんと湧いて出た。
親父の死んだ時の年齢もとっくに過ぎた俺。もう、立派な爺さんになっている。
ロクに歩くこともできずに椅子に座ったまま、毎日をぼんやりと過ごす。
その側に、フランソワーズが相変わらず10代のままの姿で座って
にこにこと俺に話しかけている。
耳元に顔を寄せ、大きめの声で、ゆっくりとした発音で。
今日ね、あたし、お孫さんですかって言われたのよ、お兄ちゃん。
「ぞっとするな」
理屈抜きの本音だった。
隣りで同僚がうんうんと頷く。
いや、お前にゃ分からないだろう、俺の気持ちは。
そうか。
俺は、ずっとあいつと一緒にいては、やれないのか。
その考えは、急にすとん、と落ちてきて、心の一番底に落ち着いた。
そうなのか。
”ジョー”には、それができるのだ。
フランソワーズと一緒に長い長い時を過ごし、その幸せも辛さも分かち合う事が。
あいつは、もうとっくの昔から、俺の想像もつかない世界に住んでいたのだ。
幾らかの時間を共有することは出来ても、いつかはそっちの世界へと帰るのだ。
フランソワーズは、とっくの昔にそれを分かっている。
俺が気づかなかっただけなのだ。
寂しい、とは感じなかった。
あいつはその世界で、幸せを見つけたのだから。
「…歓迎してやらにゃあな」
フランソワーズの、たった一人の大切な男なのだ。
「おう、大事な妹を安心して預けられる奴か、よっく見てこい」
ふと思いついて、同僚に声をかけてみた。
「なあ、お前だったらどうする?」
いきなり質問された同僚が面食らっている。もう一度、尋ねた。
「お前の娘が彼氏を連れてきたら、どうする?」
「俺の娘はまだ4才だぞ」
同僚が、まるで不吉な予言でもされたかのように顔をしかめる。
「そのうちだよ。いつの間にか、何だか分からん男と同棲始めててさ。
ある日突然紹介するって言われたら」
「…まあ一晩酒でも酌み交わして、話をするか」
「それだけか」
「そのまま酔い潰して、二日酔いの頭にケリ5発くらい入れて腹に膝蹴りして、
屋根裏の窓からそっと投げ落としてやる程度だな」
「優しいこった」
お互い笑いあって、娯楽室へ向かう。
ついでだからもう2,3人にも聞いてみようか。
手塩にかけた娘を奪われる親父の気持ち、って奴を。
あくまで参考、だ。
俺は、親父じゃないからな。
//end.
※
段々ギャグっぽくなって参りました…(遠い目)。
フランソワーズが一度帰った時に家族には記憶喪失で通した、というのは
公式版の小説でいくつか見られたネタの筈ですが
さすがに2度目はねえだろって感じで、洗いざらい白状する羽目に。
時空間漂流民編で何事も無かったかのように一緒に暮らすこの兄妹の家で
更に新聞開いてくつろいでるジョーとグレート…。一体何が。
登場話数は少なくても、ツッコミ妄想度高くて楽しい家庭です。
ちなみに「フランソワーズ」の愛称は、ファンションなんだそうで。
「フラン」はいかにも日本人の発想ぽい愛称ですね。森いちご味が良いです。
平ゼロでジャン兄さん出るって聞いた時は本当に嬉しかったんですよ。
嬉しかったんですよ。ですよ。よ…。(エコー)
何だろう、この吹きすさぶ風がよく似合う敗北感は。