→窓際に咲く光 Back...*


暖かな午後だった。
フランソワーズはリビングのソファで一人、お茶を飲んでいた。
今はみんな出かけていて、家の中には彼女しかいない。
洗濯物が乾くまでの間、少しのんびりさせてもらおうと考えて
テーブルには、お茶が冷めないようコゼーをかけたポットと焼き菓子、
買ったばかりの雑誌を揃えて、完璧にくつろぐ体勢を整えていた。
しばらく雑誌をめくった後、誰もいない部屋が静かすぎるような気がして
テレビのリモコンを押した。何気なくチャンネルを変える。
「この辺りは昔からの街並みで…」
フランソワーズは、テレビに懐かしい風景が映ったのを見て
ふと画面に見入った。日本人の女性タレントが2人、連れだって
パリの街中を歩いている。買い物ツアーを兼ねた旅行番組のようだ。
パリは、フランソワーズの生まれ育った街だ。
思わず懐かしさがこみあげて、食い入るように画面を見つめる。
(あらあのお店、まだあるのね。あの看板も、懐かしいわ…)
何度か、帰ろうと思った事はあった。でも、帰れなかった。
自分がパリを離れて、一体もう何年過ぎたろう?
何十年経っても殆ど変わらない姿を留める街並みは、
同時に二度と戻らない彼女の幸福な時間をも思い出させる。
そして、自ら切り捨てた過去も。

お兄ちゃんは…元気かしら?

一度は自分を暖かく迎えてくれた兄。再会した時の顔は、多分一生忘れない。
その兄の前から、フランソワーズは再度姿を消した。
今度は、自分から。
ジョーに着いて来た事を、後悔はしていない。普通とは違う時間の中を、
たった9人の仲間だけで生きていく決心をした事も。
それでも、何も言わずに…真実を言える訳はないのだが、別れたために
兄に対してだけはずっと後ろめたさを感じていた。
たった一人の肉親。亡くなった両親の代わりに、あたしを育ててくれた人。
行方不明になっていたあたしを、必死で探してくれていた。
だからこそ、フランソワーズはパリに戻る事ができなかった。
何度か仲間が渡欧を勧めてくれた事もあったが、もしどこかで兄に会ったら…
と思うと、どうしても足が竦んでしまう。
時間が経つ程、外見の変わらないフランソワーズは帰るきっかけを見失い、
ずるずると今日まで来てしまったのだ。

「ただいま」
不意に、ジョーの声がした。
振り向くと、ジョーが車のキィを柱に取り付けたホルダーにかけている。
いつもなら真っ先に気がついて、玄関まで迎えに行くのに…
そんなにテレビに気を取られていたのかと、フランソワーズは
慌てて立ち上がった。
「お帰りなさい。早かったのね?お茶、入れましょうか」
「道が空いていたからね…あ、疲れてるなら座ってて。自分でするから」
「ううん、ここに入れたのがあるから…まだ暖かいのよ」
ポットに被せたコゼーを持ち上げて、ジョーに指し示す。
「じゃ、カップだけ持ってくる」
ジョーがいそいそと自分のカップを持って、フランソワーズの隣に座った。
フランソワーズがお茶を淹れると、ジョーがふぅ、と湯気を吹いて一口すする。
その子供のような横顔を見ると、知らずに笑みがこぼれてくる。
「あれ、パリだね」
ジョーがテレビを見て何気なく言った。
「ええ…丁度、テレビをつけたら映ってたから」
「…懐かしい?」
「そうね。でも、時間も距離も遠くなった気がするわ」
兄の事を考えていたとは言わなかった。ジョーを相手に家族の話題を出す時は、
とりわけ慎重に言葉を選ぶ自分がいる。
「懐かしすぎて、何だか怖いのよ。だから思い出だけにしておきたいの」
ジョーが何かを言いかけたが、そのまま黙って紅茶に口をつける。
フランソワーズも、自分のカップを手に取りながらテレビを見て、息を呑んだ。
さっきのタレント2人組が、今度はパリの下町を歩いていた。
見覚えのある街並み。そこは、彼女が暮らしていたアパートのある通りだった。
あと2軒分歩くと、彼女のアパートが背景に映る筈だ。
ジョーが怪訝そうに見るのにも気づかずに、ひたすらテレビを見つめ続ける。
タレントが、お喋りをしながらどんどん歩いていく。
背景に、古びた煉瓦の壁が映る。その壁をびっしりと覆うツタ。
角がすり減って丸くなった石段。何度もペンキを塗り直した、鉄製の柵。
そこは、フランソワーズが住んでいた古いアパートだった。
あの頃と何も変わっていない。フランソワーズは息を詰めて
テレビを食い入るように見つめていた。2階の窓は映らないかしら。
いくら何でも、もうあの部屋に兄が住んでいるとは思えない。
あのアパートは随分古いし、もし結婚でもしていれば、きっともっと新しくて
広い部屋へ引っ越しているだろうから。
万が一、今もあの部屋に住んでいたって、偶然休みの日で、偶然窓から顔を出して
日本のテレビカメラに偶然写るとは思えない。そんな筈、ない。
だから、結局アパートが映ったからと言って、兄の消息が分かる訳ではないのだ。
フランソワーズだってそんな事は分かっている。
それでも、何か。
画面が切り替わり、タレントの一人をアップで映しだした。
その後ろに、アパートの窓が映り込む。
閉ざされた窓。かかっているカーテンの色に、見覚えはなかった。
フランソワーズが息をついて、視線を下ろしかけた一瞬、画面の端に
明るい黄色の点が見えた。はっとして顔を上げる。
点に見えたそれが、鮮やかな黄色をした花の鉢植えだったと気づいた瞬間
画面が変わって、タレント達はアンティークの店を物色していた。
「フランソワーズ?」
ジョーの声に我に返り、テレビ画面を透視しようとしていた自分に気づく。
そんな事をしたって、ブラウン管が透けて見えるだけなのに…
溜息と共にほろ苦い笑いがこぼれて、フランソワーズは俯いた。
「花が、あったの…」
小さな呟きが洩れる。
「窓際にね、マリーゴールドの鉢植えが…あたしが買った花が…」
言葉が続かない変わりに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきた。
ジョーは訳も分からずに驚いた顔でフランソワーズを見つめた後、
黙って彼女の頭を自分の肩へ引き寄せた。
「お兄ちゃん…」
それ以上は、言葉にならなかった。


二年ぶりに帰ったアパートの部屋は、殺伐としていた。
元々、兄が契約してフランソワーズが一人で住んでいた家で
今は軍隊生活の兄がたまに帰るだけだから、仕方ないと言えば仕方ないが、
フランソワーズには兄の心の中のようにも見えた。
だから、部屋を明るく模様替えし、毎日ぴかぴかに磨き上げた。
長い間心配をかけた、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
あの花も、そんな時に買ったものだ。
いつでも綺麗な花が見られるように、とマリーゴールドの鉢植えを買ってきた。
「俺は世話、できないぞ」
素焼きの鉢に、フランソワーズがステンシルを施しているのを眺めながら
兄が困ったような顔で言った。
「殆ど留守なのに。枯らしてしまったら可哀想だ」
「ご心配なく。あたしが育てるんだもの」
その時、フランソワーズは澄まし顔で答えた筈だ。
「これからは、あたしがずっといるんだから平気よ。あ、でも万が一あたしが
面倒見られない時は、できるだけ窓際で、お日様に当ててあげてね?」
そう言ったのに、しばらくしてすぐに自分は姿を消してしまった。
残された鉢植えを思い出す事もなかった…今日、テレビで見るまでは。
兄は相当面食らったろう。それでも、何年もの間あの鉢植えを大切に
世話してくれていたのだ。小さな花がたくさんついていた。

お兄ちゃん…今でも、あたしの事を気にかけてくれている?
あたしの事を、待っていてくれているの?

急に泣き出したフランソワーズの頭を、ジョーは黙って撫でていた。
何となくだが、状況だけでも判断はできる。
仲間達がそれぞれの国へ戻り、日常生活を送るようになった時
ジョーはフランソワーズも帰国するものだと思いこんでいた。
オペラ座の舞台にようやく立てた、と喜んでいた彼女を、地獄の日々に
連れ戻したのは自分だ。家族とのささやかな生活も、全て捨てさせた。
だから、きっとまたすぐにパリで元の生活に戻ろうとするんじゃないか、
そう考えていたが、フランソワーズは帰るそぶりすら見せなかった。
日本での共同生活はジョーには嬉しいものだったが、同時に彼女がいつ
パリへ帰ると言い出すかと、不安に思っていたのも事実だ。
実際に、彼女にそれとなく尋ねてみた事もあった。でも、その度に
「…もう、戻る気はないの。そう決めたから、いいの」
という答えが返って来るだけなので、ジョーはそれ以上聞かなかった。
今、自分の腕の中で声を殺して泣いているフランソワーズは、
帰りたい気持ちと、それ以上の不安で揺れ動いているように見える。
一瞬迷ったが、声をかけてみた。もし、彼女の不安の一つに
自分の事があるのだとしたら、それだけでも取り去ってやりたい。
昔ほどには、弱い関係じゃないから…しばらく離れても、大丈夫。
「フランソワーズ…一度、パリへ帰らないか?」
ぴくり、と細い肩が動いた。顔を伏せたまま、じっとしている。
「お兄さんの事が今でも気になるんだろう?一度ちゃんと会いに行かない?
中途半端に引きずっていても、何も変わらないよ」
フランソワーズはしばらく動かなかったが、やがてぽつりと呟いた。
「遅すぎるわ…」
「遅くなんてないよ」
ジョーはフランソワーズの髪を指で梳きながら、宥めるように言う。
「君の花…お兄さんは、大事にしてるんだろ?」
小さな鉢植えを毎日眺めながら、君の事を考えてる人がいる。


急に母国語に囲まれて、一瞬面食らった。
ドゴール空港に降り立つと、懐かしい空気と共にフランス語が流れてくる。
あたしの…国。
行き交う人々も、乾いた空気も、馴染んだ日本のそれとは全然違うけれど。
随分長い間離れていて、思い出す事も少なくなっていたのに、自然に思うのは。
帰って来た、という実感。

「一人で大丈夫よ。でも、もし泣いて帰ってきたら、慰めてね?」
フランスまでついて行こうか、と搭乗口に来てまで心配そうに言うジョーに、
笑顔で手を振って別れて来た。一人で行く、と決めていたから。
まだ迷いはあるけれど、それも含めて自分一人で何とかしたかった。
タクシーを拾い、長い間口にしなかった地名を告げる。
車の窓を流れる景色を眺めながら、しかし、フランソワーズは決めかねていた。
会いに行こうか、それとも会わずにそっと見るだけにするか。
会えば、今度こそ自分の身に起きた事を、全て話さなければならなくなる。
それも辛いが、誰より生身の頃の自分を可愛がってくれた兄が
一体どう思うかを考えると、どうしても決心がつかなかった。
自分自身でさえ、未だに完全には受け入れがたいこの現実を、兄は
受け入れてくれるだろうか?…それとも…?
表通りでタクシーを止めると、通りを抜けて下町へと続く階段を下りる。
毎日レッスンに通った道。友達と話し込んだカフェ。焼きたてのパンの香り。
夕日に照らされて、目に入る風景何もかもが懐かしかった。
目を細めながら、ゆっくりとアパートへの道を歩く。
まだ、兄が帰ってくる時間には早いはずだ。
感傷に浸りながら石畳を歩いている間に、自分の心が決まるのではないか…と
淡い期待を抱いていたが、足の方が先にアパートへ着いてしまった。
通りからアパートを眺めると、二階の窓は閉ざされていた。
青いカーテン。窓枠に置かれた、黄色い花。
素焼きの鉢には、確かに見覚えがあった。
それだけ確認すると、フランソワーズは足早に歩き去った。

近くに取ったホテルで、夜になるのを待って出直す事にした。
一目でいいから、兄の姿を自分の目で確認しておきたい。
通りに誰も歩いていないのを確認して、アパートの前に立つ。
窓を見上げると、明かりがついていた。鉢は外に出したままだ。
一瞬、力を使おうかと迷った。自分の能力なら、中にいる兄の姿を
簡単に確認できるだろう。そうして、元気な姿を一目見て、安心して
黙って帰ってしまえば…それだけだ。
無理に会うことはない。悲しませたくなんて、ないのだから。
今のあたしの姿なんて、見せる必要ない。
あの壁の向こうを一目見たら、…そのまま帰ろう。
心に決めて、耳を澄まし、目を凝らす。
その時。
急にカーテンが揺れて、窓が開いた。
花の鉢を取り込もうと手が伸びる。フランソワーズはそろりと後じさった。
と、手が滑ったのか窓枠に弾かれたのか、鉢がぐらりと傾いて落ちてきた。
思わずフランソワーズが鉢を受け止める。窓から人影が身を乗り出した。
「すみません!大丈夫ですか?」
その声を聞いて、フランソワーズはびくりと肩を震わせた。顔を上げられない。
「どこか、怪我でも?ちょっと待って下さい、今そっちへ…」
言いかけて、何か気づいたように声のトーンがゆっくりと落ちて来る。
フランソワーズは、鉢を抱きしめて俯いたままだ。
「あの…?」
マリーゴールドの葉が、顔をくすぐる。閉じた花や蕾から覗く黄色を
窓から落ちる光が照らし出していた。息をするたび、花の香りが体を満たす。

「君の花…お兄さんは、大事にしてるんだろ?」

ジョーの優しい声が耳に蘇る。
…ええ、そうよ。見て…こんなに綺麗。
フランソワーズは一つ大きく息を吸い込むと、顔を上げた。
見下ろす人影が、大きく息を呑んだ。
「…ファンション?…フランソワーズ、なのか…?」
短く刈った金髪。親譲りの青い目。記憶よりも、随分と大人になった顔。
…懐かしい声。
鉢をしっかりと両手で持ち直す。揺れた拍子に、また花の香りがこぼれる。

ジョー。勇気をくれて、ありがとう。

視線が重なる。大きく見開かれた瞳に向かって、にっこりと笑いかけた。

「お兄ちゃん」


//end.





少し時間は戻って、フランソワーズ視点で日本からの話です。
「黄金のライオン編」の頃はフランスにも帰ってたフランさんですが
「アフロディーテ編」では「フランスに帰るのが怖い」と言ってます。
で、「時空間漂流民編」ではお兄ちゃんと暮らしてます。
その点を繋いでみたかったんですけど…何かが抜けてるような気も。
「時空間漂流民編」の二人の部屋は、妙にかわゆらしい趣味してます。
カーテンとかテーブルクロスとか、時計とか。花も飾ってあって。
フランソワーズが仕切ってる家なんだろうなーと思ってたり。

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