→煙草3本分の会話 Back...*


すっかり陽の落ちたレンガ通りを、少し早足で歩いていく。
角を曲がると、遠くに見えるアパートの、二階の窓からこぼれる灯り。
それを目にしてやっと、自分の心の中にも灯がともる。
ああ、いるな…と実感する。
少し前までは、この道を帰るのが不安で仕方なかった。

部屋に灯りはついているだろうか?
ちゃんと、いるだろうか?
それも含めて、全部…俺の夢だったんじゃないだろうか。

そんな事を考えながら段々と急ぎ足になり、角を曲がった所でやっと安心して、
灯りを眺めながらゆっくり歩くのが最近のジャンの日課になっていた。
あの灯りの下で、フランソワーズが待っている。

が、今日に限っては少し意味が違う。

いるんだな。
…二人揃って。


階段を上ってドアに手をかけると、いつもの絶妙のタイミングで
フランソワーズが飛び出して来た。
狙って計ってるのか…と思っていたら、本当にそうらしい。
「お兄ちゃん!おかえりなさい!」
ジャンの首に抱きついて、おかえりのキス。ジャンも妹にキスを返す。
それでやっとフランソワーズが横に移動して、ジャンの視界が開ける。
テーブルの側に、少し戸惑った様子で少年が一人、立っていた。
…こいつがジョーか。
その栗色の髪も鳶色の瞳も、ジャンの想像する日本人像とは大分違っていた。
ハーフ特有の整った顔立ちが、こちらを見て人なつこそうな笑顔を浮かべる。
こりゃいい男だな、というのが第一印象…なんだが…。
「紹介するわね、ジョー・シマムラよ。ジョー、ジャンお兄ちゃん」
フランソワーズがジャンの袖を引っ張って、部屋に引き入れる。
ジョーが右手を差し出して、緊張気味にフランス語で挨拶をした。
「"こんにちは" ムッシュゥ、ええと…初めまして」
「"こんばんは" ジョー。こちらこそよろしく」
笑顔のまま少し余計に力を込めて手を握り返すと、ジョーが小さくあ、と呟いた。
「ちょっと、お兄ちゃん」
「おい、フランソワーズ」
兄妹が同時に肘をつついて、お互いを部屋の隅へ引っ張り合う。
「嫌味っぽい事しないでよ。恥ずかしい」
「何が」
「折角ジョーが、ちゃんと挨拶してるのに」
「俺だってちゃんと挨拶しただけだぞ。もう夜だ。それより」
「何よ」

「あれは、子供じゃないか」

二人同時に振りかえると、ジョーがきょとんとして二人を見ている。
「ごめんね、ジョー。ちょっと…待ってくれる?」
フランソワーズが笑顔でそう言うと、きっとジャンに向き直った。
「誰が子供なのよ」
「どう見ても中学生くらいだ」
「東洋系だから若く見えるだけじゃない」
「…そういう趣味だったのか?」
「違うわよ!」
思わず大声になるフランソワーズの口を、ジャンが押さえつけた。
そっとジョーの方を振りかえると、ジョーが困った顔で無理に笑う。
「童顔だから、よく言われるけど…一応、これでも大人ですから」
そう広くもない部屋の中、二人の会話はジョーに丸聞こえだったらしい。
「あ、ああ、そりゃ…悪かった」
まだ押さえつけたままのジャンの手を無理矢理振りほどいて、
フランソワーズがぎろりと睨み付けた。
「すぐ晩ご飯にしますからね。お兄ちゃん、早く着替えてよ。
折角ジョーが来るからって、いっぱいごちそう作ったのに…ほんとに…もう!」
ぷりぷりしながら大股でキッチンへ歩いていくフランソワーズを見送って、
ジャンが一つ溜息をつく。と、ジョーと目が合った。
「…すまんな。疲れてるだろうに、うるさくて」
「いいえ」
ジョーがにこりと笑う。ジャンが上着を脱ぎながら話を続けた。
「小さい頃から、俺の後をついて男友達とばっかり遊んでたからな…
バレエを習い始めてからは、まあまあマシになってきたとは思うんだが。
日本ではどうだか知らないが、素はああだ」
「はあ…」
同意していいのか悪いのか、という顔でジョーが曖昧に頷く。
ジャンが自分の椅子に座って、煙草に火をつけた。ジョーはと見ると、
ピンク色のカップで大人しくコーヒーを飲んでいる。
ジャンの昔の恋人が置いていったのを、フランソワーズが見つけて客用に
出してきたのだ。確か、カップだけでなく同じ柄の食器一式があるはずだ。
あいつ、新しいのを買って来いと言ったのに…。
何となく気の毒そうな視線を感じて、ジョーが顔を上げた。
「何か?」
「いや」
ジャンの方が視線を逸らして、灰皿に手を伸ばす。どうも調子が狂う。
…何せ、子供にしか見えないのだ。
こいつに会ったらどうしてくれよう…と考えないではなかったが
ピンクのイチゴ柄のカップを両手で持って、ぽけっとした顔で眺めているジョーを
見ていると、いっそ同情さえ湧いてくる。
「そのカップ…」
「可愛いですね、これ」
ジョーがカップを持ち上げて笑った。
「フランソワーズの趣味とはちょっと違うな、と思ったんですけど」
「あいつのじゃない」
「らしいですね。使わせて貰って、良かったのかな」
「…君が気にしないのなら」
「僕は構いませんよ」
屈託なさそうに答えるジョーを、ジャンは頬杖をついて眺めた。
「君、仕事は?急にフランスまで来て、大丈夫なのか?」
「今は…お世話になってる博士の、助手みたいな事をしてるんです。
その博士がぜひ行って来い、って言って、休みをくれました」
「ああ、フランソワーズも世話になってるんだってな」
「博士も喜んでるんです。フランソワーズがお兄さんに会って、
こうやって一緒にいられるようになった事。僕も…みんなも」
「…」
「僕達には、家族がもういませんから」
「君も?若いのに?」
ジョーの言葉が一瞬途切れた。少し目を伏せて、それから微笑む。
「僕は、孤児院で育ったんです」
「…そうか」
ジャンがゆっくり煙を吐いた。NGワードは先に言っておいてくれ…と
妹を恨めしく思いながら、煙草を灰皿で思いっきり潰す。
「俺達も、早くに両親を亡くしてな」
言い訳とも同情ともつかないセリフが思わず口をついて、更に後悔した。
こんな事、ジョーには何の慰めにもならないのに。
「でもフランソワーズを見てると、幸せに育ったんだろうなあって思いますよ。
お兄さんがいたからでしょうね。僕は…グレちゃったから」
ジョーが照れ隠しに笑った。
「俺はあいつを食わせるのに手一杯で、グレる暇もなかったよ」
ジャンも笑って、もう一本煙草に手を伸ばす。火をつけて大きく煙を
吐き出すのを待って、ジョーがぽつりと言った。
「…すいません」
「ん?」
「僕がフランソワーズを連れて行ったから…貴方を、一人にした」
「よしてくれ」
ジャンが苦笑いする。ジョーは俯いたままで言葉を続けた。
「それだけ、謝りたかったんです。一人の寂しさは、僕が一番分かってるのに」
「俺の目の前で妹を攫った奴等は、ブチ殺しても足りないとは思ったけどな」
煙草をふかしながら、ジャンはじっと動かないジョーを見つめた。
ジョーは、言うことはそれなりに一人前だが…やっぱり、子供に見える。
行き場を失くして、じっとその場に立ちつくしている小さな子供。
誰かが手を差し延べれば、その手を掴むのだろうか。
それとも、たった一人の誰かをずっとそこで待ち続けているのか。

…あいつは、その"誰か"になれるのか?

「フランソワーズは自分で君についていったんだろう?君が謝る事じゃない。
君もあいつも大人なんだから、自分達で決めたらいいんだ」
ジョーがゆっくりと顔を上げて、ジャンを見た。その時、キッチンの方から
フランソワーズの声がした。
「ジョー、ちょっと運ぶの手伝ってくれる?」
弾かれたように立とうとしたジョーを遮って、ジャンが立ち上がる。
「君はお客なんだから、ゆっくりしててくれ。俺がやるから」
煙草を指に挟んで、その煙草でジョーのカップの方を指す。
「それに、ずっと一人だった訳でもないぞ俺は。そのカップの持ち主とかな。
…他にも色々あったんだけど、そいつが全部捨てたんだ」
ジョーがピンク色のカップをきょとんと眺めて、くすりと笑った。
それを目の端に映して、ジャンがキッチンの方へ向かう。
「おい、お前の客だろ。こき使うなよ」
キッチンの奥を向いて立っているフランソワーズの背中に声をかけた。
「…あたしはジョーに、来てって言ったのよ」
フランソワーズが背中を向けたまま、小さな声で抗議する。細い肩が震えた。
「聞いてたのか?」
「あんな事…ジョーが謝らなくてもいいのに。あんな風に思ってたなんて…。
お兄ちゃんだってそうよ。無理して格好いいこと言っちゃって」
ジャンは腕組みをしたまま冷蔵庫にもたれ、煙草をふかした。
「別に、俺に甘えたっていいんじゃないかと思うんだけどな」
手を伸ばして、シンクに灰を落とす。吐いた煙がゆっくりと消えていく。
フランソワーズは黙ったままだ。しばらくその背中を眺めてから、言った。
「お前は、ジョーに手伝って欲しい訳だ?」
こくん、とフランソワーズが後ろ向きのままで頷く。ジャンがお手上げだ、という風に
キッチンから戻って来た。ジョーがそれを見て、訝しげな顔をする。
「悪いが、やっぱり君が行ってやってくれ」
煙草を揉み消しながら椅子に座るジャンの代わりに、ジョーが慌てて立ち上がった。
ジャンが三本目の煙草に火をつける。しばらくキッチンから小さな話し声が
聞こえた後、静かになった。ジャンは大したニュースもない夕刊を開いた。
それでも広告の隅々まで目を通せば、まあまあ時間は潰れるだろう。

…俺も、腹減ったんだけどな。
折角の夕食、冷める前に出してくれよ?


//end.





見事に何にも起こらない…のに長いのは何故。
3本目、ジャン、ジョー、フランソワーズの3人。
長い1日はこれで終わり。
でもすいません、話はまだ続きます。

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