→おやすみなさい Back...*


喉が渇いて、目が覚めた。
音をさせないようにそっとベッドから抜け出して、部屋を出る。
壁伝いに手探りでリビングの電灯のスイッチを探した。
確か、ここらへん…
と、ジョーの指がスイッチに届くより先に、隣のキッチンの灯りがついた。
「どうした?」
ぎょっとしてそちらを見ると、パジャマ姿のジャンが立っている。
「喉が渇いたから…」
ジョーがそう言うと、ジャンが手に持っていたペリエの瓶を見せた。
「飲むか?」
返事を聞く前に、瓶を放り投げる。ジョーが慌ててそれをキャッチした。
緑色のペリエの瓶はたった今冷蔵庫から出したようで、きんと冷えている。
「それともこっちにするか…」
ジャンがそう言いながら戸棚を開けて、ウイスキーの瓶を取り出す。
「ちょっと飲もうかと思ってな。眠くないなら、付き合えよ」
空いた方の手で、グラスを二個取り出した。ジョーは黙ったまま立っている。
できればこのまま部屋に戻りたいんだけど…。
「…俺とじゃ嫌か?」
困ったような顔のジョーを見てジャンが苦笑する。それからふと気付いたように
何とかもう一つ持てないかと指でグラスをつつきながら言った。
「フランソワ−ズも起きてるなら、呼んでこいよ。そっちの部屋だろう?」
「あの、いえ…寝てます」
ばれてる。

フランスでの生活は、ジョーが思っていたよりも悪くなかった。
当初ジョーはフランソワ−ズに対して、日本にいる時とはかなり違和感を
感じていた。彼女がジャンに当たり前のように抱きつくのも、何だか面白くない。
でもしばらくしてすぐに気がついた。要するに、日本にいる時の彼女は
日本の習慣に合わせていたわけで、フランスではフランス人として
ごく普通に振る舞っているだけなのだ。
勿論、ジョーに対しては日本でしているのと同じ様に、つまり人前では
少々距離を置くので、逆にジャンが時々不思議そうな顔で二人を見ていた。
今日など、休暇を取っているジャンが二人を夕食に連れて行ってくれた時は
時々ジョーに耳打ちして、フランソワ−ズのエスコートを促したくらいだ。
兄と恋人の二人に挟まれた格好のフランソワ−ズは、
「これも "両手に花" って言うのかしら?」
と嬉しそうに笑った。

「ま、フリだけでも俺の前では遠慮してくれりゃな」
ジャンが笑いながら言う。目が慣れてくると、月明かりが差し込むリビングは
それなりに明るかった。テーブルの上で、二個のグラスがきらりと光る。
「俺も、見ないフリしてやれるから。君の首を絞めなくて済む」
グラスにウイスキーを指二本分程注いで、立ったままのジョーに手を出した。
ペリエの瓶を指差す。ジョーが慌てて瓶を持ってテーブルに近寄った。
「どれくらい?」
「…そのくらいで。ありがとう」
ジョーも同じくらいウイスキーを入れてもらい、ペリエを開ける。
「何か、つまみはあったかな…」
ジョーがグラスにペリエを注ぐ間にジャンがキッチンを探して、クラッカーや
チーズ、ハム、バジルペースト等を見つけてきた。それをテーブルに並べて
即席のカナッペを作り、ジョーにも一つ手渡してくれる。
「…妙に、腹減るんだよな。俺も昔、そうだった」
ジョーが殆ど一口で、ぱくりと食べてしまったのを見てジャンが何気なく言った。
慌ててウイスキーを流し込んで更にむせ返るジョーにはお構いなしで、
自分のグラスに酒を注ぎ足しながらのんびりと呟く。
「今はもう、あんまり若くないからなあ…」
ジャンは煙草に火をつけた。ジョーは顔を背けて、咳き込み続けている。

「そういや、君、レースやってたんだって?」
煙を吐き出しながら、ジャンが思い出したように口を開いた。
「うちの部隊に車の好きな奴がいてな、そんな名前の日本人レーサーがいたって」
二杯目からは、ジャンの方はロックで飲んでいた。
「昔、少しだけ。…すぐ辞めちゃいましたけど」
「勿体ないな。簡単になれるもんじゃないだろうに」
他愛ない話をしながら、ジョーのグラスにジャンがウイスキーを注ぐ。
放っておくとグラスの縁まで注ぎ込まれそうなのをやんわり拒否しながら、
ジョーが琥珀色をペリエで薄めていく。小さな泡がぱちぱちと弾けた。
「移動も多いし、マスコミがうるさいし…いろいろ、落ち着かないから」
「ふうん。まあスター選手にもなると、色々あるか」
「車は、普通に街中でも乗れますしね。…飛行機は無理だけど」
「そうだな。俺も車だったら良かったかな」
ジャンが飛行機の話をすることに、フランソワ−ズはあまりいい顔をしない。
まだ若い頃のジャンが、たった一人で妹を育てるために空軍へ入隊しただろう事は
ジョーにも何となく想像できる。勿論、フランソワ−ズもそれは十分承知のはずだ。
でも、それと同時に彼女がひどく戦争を嫌う理由も、少しわかる気がする。
「俺の仕事、忙しくなるんだ。来週からしばらく留守にするから」
「忙しいって?」
ジョーの言葉に緊張が走った。それを見て、ジャンが苦笑いする。
「違う違う…物騒な話じゃない。パレードの準備だよ。知らないか?」
今度はジョーがきょとんとした顔になる。ふるふると首を横に振った。
「7月の革命記念日に軍のパレードがあるんだよ。それの合同演習。すごいぞ。
シャンゼリゼを陸海空軍と…憲兵隊とで行進するんだ。俺は飛行機で、上を飛ぶから」
飛行機の話になると、ジャンはくしゃりと子供のような笑顔になる。
ジョーもつられて笑顔になった。
「その頃までここにいるか?二人で見に来いよ、俺も張り合いが出るから」
「へえ…」
そう言われてふと考え込んだ。興味はある。けれど、そんなに長い間
ここにいる事をみんなが許してくれるだろうか?イワンの事もあるし…。
第一、フランソワ−ズがどうするつもりなのか、全く話をしていない。
ここに残るつもりなのか、それとも日本へ戻るのか…。
思案顔のジョーを見て、ジャンも何か思い当たったらしい。
「…君らにも都合はあるだろうから、無理しなくてもいいけどな」
不意に静寂が訪れた。
そのまま黙りこくって新しい煙草に火をつけるジャンを見て、ジョーが何かを
言いかけた。…が、かける言葉が思い当たらず…静寂がそのまま腰を据える。

「…できたら、俺のいない間に連れて帰ってくれ」
ぽつり、とジャンが言った。ジョーとは視線を合わせずに、グラスを眺めている。
「たまに、また会いに来てくれたら嬉しいが」
「…フランソワ−ズは、」
「俺、あんまりいい兄貴じゃなかったからなあ。こうやって会えただけで十分だ」
ジャンがとんとん、と煙草で灰皿を叩くと、灰は音もなく崩れ落ちた。
ぼんやりと二人でそれを眺め、ふと目が合う。ジャンが口を開いた。
「全然側に居てやらなくて、随分寂しい思いをさせた」
「でも、それは…」
「金が必要なのは確かだったさ。バレエだって続けさせてやりたかった。
でも、それだけなら他の仕事でも良かったんだ。…俺は、飛行機に乗りたかった」
ジョーが目を丸くする。月明かりの中で、ジャンが微かに笑った。
「こんな事誰かに言うの、始めてだな。妹のためだって言いながら、俺はまず
自分がやりたい事を目指したんだ。二人分の夢を叶える最高の方法だと思ってな。
まだ小さい妹一人この家に残して、さっさと入隊しちまった」
ジャンが背もたれに寄りかかって天井を見上げる、ぎしり、と椅子が軋んだ。
静まり返った部屋の中で、その音がやたら大きく聞こえる。
「俺もガキだったけど、あいつはもっとガキだから…そりゃ寂しかったろうな。
全然気付かなかった。俺が帰ってきた時は、いつも二人だろ。あいつが誘拐されて
初めて俺はこの家で一人で過ごしたんだ。こんな寂しいもんだったのか、って」
どこか遠くで車のクラクションが聞こえた。
古い街並は深い眠りの底に沈んだまま、じっとして動かない。

ふと、ジョーの後ろをまだ少女のフランソワ−ズが駆け抜けた気がした。
誰も見ていないのに、強がった顔で慌ててドアを開け、部屋のベッドへ潜り込む。
…それは幼い頃のジョーの姿になった。

ついさっきまで自分の腕の中にいたフランソワーズを思い出す。
寝顔に微笑みを浮かべていた彼女は、今頃どんな夢を見ているのだろう。

「それでも飛ぶのは止めないんだから、俺も大概馬鹿なんだが」
ジャンがまた、新しい煙草に火をつける。ふう、と煙を吐きながら呟いた。
白い煙がゆっくりと立ち上り、窓から差し込む月の光に融けていく。
何とはなしにその横顔を見た。ジャンの青い瞳は、空の色を映しているのだろうか。
「…僕が言うことじゃないかもしれないけど、」
ジョーが口を開いた。言葉を選びながら、ゆっくりと話す。
「僕と会う前の…普通に暮らしていた頃って、フランソワーズにとっては
すごく大切な思い出なんです。あなたに愛されてるっていうことを
フランソワーズはちゃんと分かってるから…だから、幸せだったんだと思う」
「…確かに、君が言うことじゃないな」
仏頂面のジャンがそう言うと、ジョーは黙り込んだ。
「あいつ、帰ってきてから君の話しかしないんだ。一緒にどこへ行ったとか
何をしたとか、どんな話をしたとか。もう聞き飽きた」
一気にウイスキーを流し込むジャンに、ジョーが目をぱちくりさせる。
「君がレースもやめて、毎日一緒にいてくれる事が嬉しくて仕方ないらしい。
その度に、俺とは大違いだって言われてるようでたまらん。早く連れてってくれ」
酔っているのか冗談なのか、両方なのか。
ジョーは判断できないまま、慌ててジャンのグラスにウイスキーを注ぎ足した。
それをまたすぐにジャンが空にする。
「氷、取って来ます」
勢いに押されて、半ば逃げるようにジョーがキッチンへと出ていく。
「…あんまり長い間いると、帰したくなくなるからな…」
ジャンの呟くような声は、ジョーが氷を砕く音でかき消された。

適当に砕いた氷をグラスに入れて戻ってみると、ジャンは項垂れた姿勢のまま
動かなくなっていた。肩を揺すってみたが、起きる様子はない。
「風邪ひきますよ」
仕方ないな、とジョーが肩を貸してジャンを立たせる。部屋へ連れて行こうとすると
ジャンがぼんやりと目を開けてジョーの方に顔を向けた。
「あのな、ジョー」
「はい?」
「今すごく楽しい。あいつが戻ってきて、君も来て、毎日賑やかで…」
「…はい」
おぼつかない足取りでジョーに向き合い、肩に手をかける。
「フランソワーズの側に、いてやってくれ」
「はい」
「頼んだぞ」
「はい」
「ほんとだぞ」
「はい」
「浮気なんかしたら、俺がミラージュで撃ち落とすぞ」
「………」
ジョーの最後の返事を聞く前に、ジャンの意識はふっと途切れた。

「…ジョー?」
振り向くと、パジャマを羽織ったフランソワーズがドアの所に立っていた。
ジョーにぶら下がった格好で眠っているジャンに気づいて、駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「寝ちゃった…みたい」
「やだ、もう。こんなに…飲み過ぎよ」
フランソワーズが残り少なくなったテーブルの酒瓶を見て、呆れたように言った。
「とにかく、部屋に連れて行って寝かせよう」
ジョーがジャンの片腕を外して抱え直す。フランソワーズは走っていってジャンの
部屋のドアを開けた。中へ入ってベッドの掛け布団をめくる。
ジョーがそのベッドへジャンを寝かせると、その肩へ布団をかけ、ついでに
熟睡しているおでこをぱちん、と指で弾いた。
「んもう。あたしやジョーが日本に帰ったら、どうするつもり?」
「え?」
驚いたジョーが声を出すと、フランソワーズが振り返る。
「帰らないの?」
「そりゃ帰るけど。君も帰るの?」
「もちろん…帰るわよ?」
なぜ?という顔でフランソワーズが答える。
「革命記念日までは、フランスにいたいなって思ってたんだけど…
久しぶりだし。お兄ちゃんがパレードに出るって言ってたから、見に行きたいの。
でも、博士に相談しなくちゃいけないわよね。勝手なことばかりできないわ。
そう言えば…ジョーはいつまでいられるの?」
ジョーは少し拍子抜けした気分で答えた。
「うん…僕も、相談しなきゃ。パレード、見たいから」
「明日、日本に電話してみましょうか」
フランソワーズがドアへ向かいながら、そう言った。ジョーもその後をついて
部屋を出ようとして、ふと壁際のチェストに飾ってある様々な写真に気がついた。

まだ若い夫婦と、幼い兄妹が並んだ写真。
小さな赤ん坊を抱いた母親の写真。
おもちゃの飛行機を持ってはしゃぐ少年と父親の写真。
白いチュチュを着てすまし顔でトゥで立つ幼い少女の写真。
軍服を着た青年と並んだ…今と変わらない笑顔の、フランソワーズ。

暗くてそれぞれの顔ははっきりとは見えないが、どれも綺麗な額に入れられて
丁寧にチェストの上に並べられている。ジョーがそれに見入っていると、
フランソワーズも気がついたようだ。
「本当はこういう家族の写真は、リビングに飾るものなんだけど」
戻ってきて、ジョーの隣に立って説明した。
「お兄ちゃんだけ年を取ってるの、変でしょう。だからこっちに」
ジャンの部屋に入ったのは、ジョーも今夜が初めてだった。
セピア色の写真の中の、幸せそうな家族の姿に淡い憧憬を覚える。
「あら。ねぇジョー…これ、見て」
フランソワーズが隅に置かれた写真立てを取って、ジョーに見せた。
それは他の写真の影になってジョーからは見えなかったが、まだ真新しい写真だった。

金の縁取りのついたアンティーク調のフレームの中で、
フランソワーズとジョーがくっつくようにして笑いあっている。

それは、数日前に三人で出かけた公園で撮られたものだった。
ジャンが売店で買ってきたインスタントカメラで、写真を撮っていたのだ。
主に被写体はフランソワーズで、ジョーもそれを借りて何枚かシャッターを切った
覚えはあったのだが…こんな写真を撮っていた事に、二人とも気がつかなかった。
「フランソワーズも気がつかなかったんだ」
ジョーが驚きながら写真を眺めた。フランソワーズも横から覗き込む。
「ええ、ちっとも…でも、よく撮れてるわよね?」
くすくす笑いながら、フランソワーズがジャンの方を振り返った。
ジャンは相変わらずベッドの中で熟睡している。
ジョーはそっと写真を元に戻した。真新しいその写真は、何となく他と比べて
浮いて見える気がしたけれど…いつか、馴染んだ色に変わるだろうか。
写真の中の二人は、他の写真に負けないくらい幸せそうな顔に見えた。
「ねえ」
ふと気づいたように、フランソワーズが言った。
「今って、日本じゃもう朝よね?…博士に、電話かけてみましょうか」
パリと日本の時差は、8時間。もうみんな起きているだろう。
「うん。でも、お兄さんを起こさないように、静かにね」
「あれじゃ起きっこないわよ。熟睡してるわ」
フランソワーズは笑ってドアを開ける。ジョーは一度ジャンを振り返って、
それから部屋を出た。フランソワーズがその後に続く。
「…おやすみなさい」

日本に電話をかけて、博士にお願いして。
留守番をしてくれているジェットと大人、グレートにはお土産を張り込んで。
多分夜の時間に入っているイワンに、心の中で謝って。
…もう少しだけ、甘えさせてもらえるかな?

明日は三人で、写真を撮ろう。


//end.





(参考)
「誕生編」「地下帝国ヨミ編」「アフロディーテ編」「時空間漂流民編」e.t.c.

終わってるような、終わってないような…。
結局何がどうなんだ、と言われると困るんですけども。
単にジャン兄ちゃんを書きたかっただけなのに、いつの間にか
ジョーのマスオさん話になってしまったような気がします。あれ?
とりあえず、シリーズとしてはこれで一旦おしまいです。
こんな風に文章を書き続けたのは初めてなので、色々楽しかったです。
おつきあいありがとうございました。

ジャンとフランソワーズとジョーと、それぞれお互いの気持ちに
少しずつずれがあるんですけど、それを含めて相手を思いやれるような関係が
理想かなあと思います。完全に分かり合えるという事はないと思うので…。
微妙というか大雑把というか、そういう匙加減がないと人間同士付き合えない。

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