5
「今ドアを開けるわ、お父様」
私は写真を置くと、ドアの方へ走り寄った。一つ深呼吸をしてから、鍵を外してドアを開ける。
その途端、銃口が突き出されて私の体は押しのけられた。猟銃を抱えたお父様が、私を背にして入ってきた。
「誰かいたんじゃないのか?」
見ると、どこにもジャンの姿は無かった。お父様は銃を構えたまま、ゆっくり部屋を見渡した。
「危ないでしょう、娘さんの部屋で」
急に声がしてお父様が慌てて銃を構えたが、ドアの影に潜んでいたジャンにあっさり取り上げられた。
「貴様!」
取り返そうとするお父様を避けながら、ジャンは猟銃の弾を全部抜いて側の水差しの中に放り込んでしまった。唖然とする私に銃身を放り投げて寄越す。私は慌てて受け取った。
「ドゥ・リーニュ博士…ですね?失礼」
ジャンは膝をついたお父様に手を貸そうとしたが、お父様はその手を乱暴に弾いた。よろよろと立ち上がると、私を庇うように経ってとジャンを睨み付けた。
「リュシエンヌは儂の娘じゃ。誰にも渡さん」
「ああ。…いや、こんな時間にここにいちゃ、どう思われても仕方ないんですが」
「お父様、彼は悪くないの。私が」
「黙ってなさい」
お父様はジャンから目を逸らさない。
「あの写真を見せたのは、お前じゃな?娘に娘に何を吹き込んだ?」
ジャンは黙って立っている。
「娘は事故の後遺症で情緒不安定なんじゃ。大切な一人娘が、記憶まで失っておるのに…これ以上混乱させんでくれ」
「…ええ、僕も立ち入って余計な事をしてしまった。博士が娘さんを心配されているのは分かります。だからこれ以上は関わらない」
目の前にある痩せた背中から力が抜けていく。ジャンは私をちらりと見た。
「最初はそう思ってた。でも今はそうじゃない」
私は顔を上げた。お父様は警戒するようにジャンの言葉を待っている。
「貴方は娘さんが大切な一人娘だと言った。僕だってフランソワーズがたった一人の家族なんだ。どうしても貴方に聞かなきゃならない事がある」
ジャンは一息つくと、こちらに向き直った。
「妹を、どうしました?半年前に貴方の組織にさらわれた娘です。髪と目は、僕と同じ色をしている」
「いもうと…?」
お父様は何の話かという風に首を傾げた。眉を寄せて、ジャンの顔を眺めている。私はベッドに置いたままの写真を取った。
「この子よ。お父様、どこかで見たことない?」
「半年前と言うと…あの頃は世界中から人間が連れて来られたんじゃ。とてもじゃないが…」
お父様は写真をのぞき込んでジャンと見比べた後、弾かれたように声を上げた。
「003か!」
「ご存じなんですね?」
「ああ、覚えとる。手術には儂も立ち会ったからの。他にも何人かの実験に立ち会ったが、あれは素晴らしかった。ギルモア君の腕がまた、」
そこで不意に言葉が途切れた。
「手術?実験とは何です?」
「身体の部分を機械のものに置き換える実験じゃ。成功すれば、常人を遙かに上回る能力が得られる夢のような技術じゃよ。そして、003は成功した。大成功じゃった」
説明する声に次第に力がこもってきた。小さなグレーの瞳は、私に組織の話をしたときと同じ熱を帯びていた。
手術。狂信的な実験を繰り返す研究者。身体の自由を奪われて機械を取り付けられた人たち。ジャンの顔が強張っていることに、お父様は気づかない。
「003は…感覚器官を機械化したんじゃ。今までは情報処理が追いつかんかったが、人工脳を組み入れた事で実用化にこぎ着けた。最初は戦闘に不向きと思われたがの、他の実験体と組ませたら飛躍的に効果を上げてくれたんじゃよ」
精一杯抑えた声が話を遮った。「…それでどうしました」
お父様は不快そうにジャンを見た。
「奴等か?逃げた。性能テスト中にギルモアを人質に取って、基地を半壊させてな。001から009までもが、裏切って逃げて行った」
「妹も一緒に?何処へ?」
「知らんよ。その少し前に、妻が事故で亡くなった。儂はリュシーだけでも助けてやりたくて、密かに基地へ呼び寄せたんじゃ。奴等が逃げた後、追っ手の殆どがそちらに向かった隙に儂等も逃げたから、その後の事は知らん」
そう、あの時私もその場所にいたのだ。大勢の人が実験と称して切り刻まれた場所に。最初はお父様がそこで何をしているのか、全然分からなかった。…私は事故で失明していたから。
「大方、全員捕まったんじゃろう。折角素晴らしい能力を与えてやったのに、馬鹿な真似をしおって」
でも、知ってしまった。私は見たのだ。実験台に使われた人たちが最終的に辿り着いた場所を。
「逆らった者は殆どが殺されたが…貴重な実験体じゃからの。どうなったか」
無我夢中で廊下を走っていて、その場所にたどり着いたのだ。
あまりのショックで、お父様の部屋から飛び出した。
私の目は見えるようになっていた。鏡を見た。
包帯が外された。手術が終わったから。事故で潰された私の両目。
「さあ、気が済んだら帰りたまえ。二度と娘に近寄らんでくれ」
お父様がジャンをドアから押しだそうとした。
「待ってください、まだ、」
「帰ってくれ」
「お父様、まだ話は終わってないわ」
ジャンが肩越しに振り向いた。
私と同じ色の、青い目。
手術が終わり、包帯が外された。
私の両目はすっかり見えるようになっていた。そう言うと、お父様は喜んだ。
でも、私の両目は事故で潰れた筈だった。お母様譲りのヘーゼルの目は、私の密かな自慢だったのに。
不思議な気持ちで助手の一人が手渡してくれた手鏡を覗き込んだ。
見覚えのない青い目が二つ、鏡の向こうからこちらを見ていた。
私は悲鳴を上げた。
「ジャン、私の目のことに貴方は気づいていたのね?でも黙っててくれた」
ジャンは驚いて私を見た。私が頷くと、一度目を伏せて小さなため息をついた。
「君が覚えてない事を、敢えて教える必要もないからね」
気づいた時、真っ暗な部屋に辿り着いていた。そこがどこかを理解する前に、異臭が鼻をついた。
部屋の隅に、あちこちを切り刻まれた人の身体がいくつも無造作に積み上げられている。私に一番近い所にあった女の人の死体は、耳を削ぎ落とされ、両目をくり抜かれて横たわっていた。
自分にその映像を見せている目がどこから来たものなのか。私はそれに気がついた。
「フランソワーズが手術されたのは、目なのね?お父様」
「あ…?ああ、目と耳じゃが」
「機械と取り替えて、残った部分はどうなったの」
視界が滲む。あの時のショックはもう無かったが、違う衝撃で身体が震えていた。
事故で記憶を失った訳じゃなかった。
その後に自分に起きた出来事を、私は受け入れられなかったのだ。
「今、私が見ているこの青い目は、フランソワーズのものなのね…?」
私は、自分で自分の記憶を封印したのだった。
全員が押し黙っていた。堪えきれなかったのだろう、お父様が声を出した。
「お前の目はすっかり駄目になっていたんじゃ。そこにあの娘が連れて来られた。手術の後で、不要になった眼球がそのまま残されて…捨てるよりは、と思って保存液に入れて持ち帰った。人工の眼球でも成功したんじゃ、手術はさほど難しくなかった。幸い、大した拒否反応も出ずに済んだ…目の色が違う事だけは、心残りじゃったが」
一度私と目が合ったが、すぐに伏せてしまった。
「ご自分の娘さんには妹と同じ手術をしようとは思わなかったんですか?」
ジャンがそう言い放つと、お父様は項垂れたまま首を横に振った。
「実験台に自分の娘を使えるものか。儂は自分の研究が間違っとるとは思わん。しかし、娘は普通の人間として幸せになって欲しい。当たり前じゃ」
エゴの塊のようなその言葉を、ジャンはじっと聞いていた。不器用な、でもそれは私を護りたいという精一杯の気持ちなのだ。私は言葉が思いつかなかった。
「あんなにショックを受けるとは思わなかったんじゃ…お前は、昔の事を全て忘れてしまった。だから、儂もできるだけお前が思い出さずに済むように昔の痕跡を全て消した。消したつもりじゃった」
そのままお父様は崩れるように床に座り込んでしまった。ジャンがその後を続けた。
「最初君を見た時、違和感があったよ。後であのパンフレットを見て目の色が違うのに気がついた。その時は自分の記憶が間違っていたのかと思ったけど…目の傷の話をしたとき、もしかしたらと思った」
私は右目を押さえた。光彩に小さな傷がある事を彼に話したのを思い出す。
「その傷は、妹が小さい頃、木から落ちた時についたものだ」
「そう…だったの」
「君と別れた後、いきなり知らない男に襲われた。それで分かったんだ」
両手を固く握りしめたお父様が、ジャンの方をちらりと見た。
「君に近づくな、と言われてパンフレットを奪われたよ。まあ、脅すだけのつもりじゃなかったみたいだけど、僕もそんな簡単に死にたくはないしね。襲った奴の後をついていったらここに来たんだ」
「リュシーを護るためじゃ!お前が全て台無しにしようとしたから、儂は」
「そうですね。そうしようかとも思った。全部ぶちまけてしまえば妹の行方も分かるだろうと」
あっさり認めて、ジャンは壁に寄りかかった。しばらく天井を眺めてから、こちらを見た。
「でも、僕の予想が本当なら貴方達も傷つくでしょう。自分がされたのと同じ真似はしたくなかった」
私はお父様の小さな背中を眺めた。たった二人きりの家族なんだ、と言ったジャンの言葉を思い出した。
「博士、教えて下さってありがとうございました。お礼に一つ、僕からも情報を。僕が調べた限りでは、貴方の居た組織は多分もう無くなっている」
お父様がゆっくりと顔を上げた。ジャンが微かに微笑んだ。
「貴方達が逃げた後でしょう、段々活動が途絶えて行ったようです。ここ何ヶ月かは、闇取引や事件を起こした形跡が殆どありません」
「それは…変じゃ。実験終了後の量産体制も整っておった。今頃は人間兵器の輸出が始まっておる筈じゃ」
「勿論、完全にとは思えない。でも活動拠点が次々と消え失せているという話も聞きました」
それが何を意味するのか、私には分からなかった。お父様が首を振った。
「確かに、儂等にも追っ手はかかっておらんようじゃが…それにしても信じられん」
「だから僕は、妹達も捕まってないと思う事にします。きっといつか、戻って来ると」
ジャンは手を差し出して、お父様を立たせた。今度はお父様も振り払わなかった。
カーテンの向こうが明るくなっていた。私たちは、ぼんやりとベッドの端に腰掛けていた。
「あの…これ、破れてしまってごめんなさい。良かったらこちらを持って行って」
私がパンフレットを差し出すと、ジャンは少し迷ってから受け取った。
「いいの?これ、妹の部屋から持ち出して来たから、できれば戻しておきたい」
「どうぞ。…色は後で塗り直してくれる?」
ジャンは声を立てて笑った。
「実は妹にナンパしに来たのかってすごく怒られて取り上げられたんだ。だからこのままにしておくよ」
それを見て、私は夢の中の彼の笑顔を思い出した。
「あの時、妹さんに会いに楽屋に来たでしょう。薔薇を持って」
「そうだったかな。ああ、衣装がピンクだからピンクの花がいいとか言ってたっけ。…見てたのかい?」
「夢でね」
ジャンは口元に笑みを浮かべたまま、首を傾げた。
「時々、不思議な夢を見るの。私はそこでは自分じゃない誰かで、知らない家で暮らしているわ。その夢の中に時々、あなたがいるの」
あれは夢でも願望でもなかった。
「仲のいい兄妹なのね」
青い目が、私にフランソワーズの記憶を見せてくれたのだ。
「いつもあなたの姿を探しているみたいだった」
悲しくはないのに、涙が溢れた。まるで目だけが勝手に泣いているかのように。
ジャンがそっと指で私の頬を拭ってくれた。
「両親が早くに亡くなってね。おかげで妹には小さいうちから随分苦労させたんだ。僕が軍に入ってからはずっと一人で暮らしているようなものだったから、たまに帰ると側を離れなかった。寂しかったんだろうな」
「でも幸せだったわ。とても大切にしてもらっていたもの」
「そうかな」
ジャンは手にしたパンフレットに問いかけるように言った。
「…そうかな」
「だからきっと、生きて帰ってくるわ」
何故か私は、私を庇うように立って動かなかったお父様の背中を思い出していた。
今でも時々、私の夢の中には知らない光景が現れる。
公園で私の前を走っていく小さな男の子や服を着せてくれる女の人。頭を撫でる男の人の手。でも次第にそれはお父様やお母様の姿に変わり、私の記憶と重なった。ジャンの姿だけが変わらないのは、私が一人っ子だからだろうか。
キスの後に目が合って、彼は少し複雑そうな顔をした。それを見て、私は彼と二度と会えない事を知った。どんな理由でも、私達が彼の大切な家族を奪った事に代わりはないのだ。私は彼をじっと見ていた。この目に焼き付いたものが、いつか彼の妹に届くといい。
ジャンが目を逸らして、黙って立ち去った。
その姿が見えなくなるまで、私は見つめ続けた。
朝の光が差し込んで、視界が滲んでも、私の目は彼の姿を追い続けていた。
//end.
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