" 煙色の風景 " ▲ BACK TO TOP



古いアパートを見上げて、少年はひとつため息をついた。
片手でズボンのポケットを探ってメモを取りだし、住所を確かめる。この街は少年にとっては庭みたいなものだったから、建物を間違える筈はなかった。問題は部屋の場所で、どう見ても縦に5つしか窓が並んでいないアパートなのに渡されたメモには「6階」と書いてあるのだ。
とりあえず行ってみて、見つからなければ誰かに聞いてみればいい。
少年はメモをポケットにねじ込むと、もう片方の手に抱えたバゲットがまだ温かいのを袋越しに確認してから一気に階段を駆け上がった。

実際に階段を上ってみると、5階からまだ階段が続いているのが分かった。その先には、元は鳩小屋だったのか、屋根裏のような部屋が一つあった。通りから見ると建物の奥にあたる場所だったので、今まで気づかなかったらしい。
少年は周りを見回してから軽くノックした。が、返事がないのでもう少し強くドアを叩いた。しばらく物音がした後、ドアから顔を出した若い女の姿に少年はたじろいだ。
ぼさぼさの頭にキャミソール姿の女は、ひどく疲れた顔で細巻きをくわえている。話すのも億劫なのか、しばらく少年を眺めてから小首を傾げた。何か言え、と促している。
「…あの、オットーの店の配達だけど」
やっとそれだけ言った少年がメモとバゲットの袋を差し出すと、女はそれをじっと見てそれからふと思い出したように窓の外を見て「もう夕方?」と呟いた。
「銀行に行くの忘れてた。…ちょっと待ってて」
女が引っ込むと、ドアは立て付けが悪いのか、ゆっくり動いて少し開いた所で止まった。廊下に取り残された少年は呆気にとられ、それから気づいて腕を下ろした。
ドアの隙間から中を覗いてみると、薄暗い部屋にある大きな窓から夕焼けが広がって見えた。少年はもっと見ようと首を伸ばしたが、すぐ戻ってきた女に視界を遮られた。
「悪いけど、今お金が無いの。後で払いに行くのじゃダメかな」
「初めてのお客さんには、お金をもらえなきゃ品物を渡すなって言われてる」
「あたし、昨日から何にも食べてないのよね。こんな場所だし、忙しくて買い物も行けないし。あのお店は配達してくれるっていうからあてにしてたんだけど」
どことなくぐったりした様子で、女が腕組みをして廊下の壁に寄りかかった。下着一枚の胸が丁度少年の目の前にある。少年は片眉を上げたが、あくまで興味がない風を装った。
「あそこの店の子?」
細巻きを片手にして、女が全く関係ない話を振ってきた。
「俺はバイト」
「でしょうね。あのおじさんの息子がこんな綺麗な子だったら詐欺だわ」
よくわからない納得の仕方をして、頷いている。
「本当に金、無いの?1フランも?」
バゲット1本なら大した金額ではない。少年が念を押すと、女は首を振った。
「今日、銀行に行こうと思ってたから全部本に使っちゃった。明日払うわよ」
「俺がオットーに殺される」
「お腹すいちゃった。あんたがすごくいい匂いさせてるから」
それだけ言うと、女は細巻きをふかし続けた。そのうち、遠くから教会の鐘が聞こえてきた。通路をふさがれた格好になった少年は少し苛ついて言った。
「頼むから金払うか、諦めるかしてくれよ。俺、妹を迎えに行かなきゃ」
「あたしも今夜一晩に命かかってんのよ。明日までに論文出さなきゃならないの。その前に飢え死にしそうなんだけど」
鐘が鳴り終わった頃、少年が根負けした。
「…わかった。今日は俺が立て替えて払っておいてやるから、明日絶対返してくれよ」
袋を女の前に突き出す。
「え、いいの。…お金、持ってるの?」
「俺と妹のおやつ代にバイト代足せば、なんとか。明日また来るから絶対払ってくれ」
「助かるわ。今頃の時間には帰ってると思うから。どうもありがとう」
女は袋を受け取ると、少年に抱きついて頬にキスした。密着した胸の感触が残った。少年は一瞬ぽかんとしたが、時間がない事に気づいて慌てて階段を駆け下りた。
「あたしはリーザよ。あんた、名前は?」
「ジャン!」
階段の下の方から声だけが飛んできた。


「お兄ちゃん!」
バレエ教室はとっくに終わっていて、殆どの子が親に連れられて帰った後だった。ジャンの姿が見えると、妹のフランソワーズが大きな鞄を提げて駆け寄ってくる。
「悪い、遅れた。待ったか?」
「ちょっとね。でも大きいクラスの練習見てたから」
フランソワーズは上機嫌で、ジャンの腕にぶら下がって今日のレッスンの報告をしている。少し早めに上のクラスになれたのが嬉しかったらしく、お喋りが止まらない。
そのまま通り過ぎるか…と思ったら、公園で足を止めた。
「お腹空いちゃった!ね、お菓子買いに行こう」
木陰でお菓子を売っているワゴンを指さす。
「あのな、悪いけど今日は金がないんだ。家に帰って何か食べよう」
「ええ?お母さん、お金くれるの忘れちゃったの?」
「そうじゃなくて…知り合いに貸しちゃったんだ。どうしてもって言われて」
「お金、貸したの?」
今までそんなことは一度も無かった、という顔でフランソワーズはジャンを見上げる。何となく後ろめたいジャンは目を逸らした。
「ごめん…ほんとに、色々あってさ」
困り果てた声に、フランソワーズもがっかりした顔でワゴンを眺めた。
「お兄ちゃん、パン屋さんのいい匂いするんだもの…あたしお腹空いちゃった」
どこかで聞いたようなセリフにどきりとする。
「早く帰ろう。家なら何かあるだろ」
妹の手を引くが、フランソワーズは動こうとしない。
「ファン?」
「お腹空いて歩けない…抱っこして」
大げさにお腹を押さえて蹲る。ジャンは軽く息をつくと、鞄を肩にかけ直してからフランソワーズを抱き上げた。
「高い高い」
あっという間に機嫌を直したフランソワーズが笑う。
「俺も腹減ったよ」
「じゃ早く帰ろ」
フランソワーズが足をばたつかせた。



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