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オットーの店へ向かう途中、ジャンはショーケースの前で足を止めた。
ケースには、組み立て式の模型飛行機が飾られている。
模型とはいっても、電池を入れれば飛ばすことも出来るらしい。ジャンはこの飛行機のために一年以上バイトをしている。
あと少し、バカンスへ行く迄には手に入れる予定だから、今は僅かの金でも無駄には出来ない。
そう自分に言い聞かせると、道を急いだ。
「丁度焼けた所だ。持って行ってくれ」
店に駆け込むと、エプロン姿のオットーが積み上がった天板を指さした。
その隣では、息子のラウルがドライフルーツをカップで量っている。
ジャンはミトンに片手を押し込むと、焼き上がったばかりのバゲットをナプキンでくるんでいく。
オットーが焼いたバゲットの殆どは近くのカフェやビストロへ卸している。
バカンスの時期は特に観光客が増えて料理屋がにぎわうため、焼き菓子や総菜などの他のメニューは全て休んでパンだけを焼くのが常だった。
そういうお得意様へ、ディナーの時間に間に合うよう品物を届けるのがジャンの仕事だ。
「今日はこれで全部?いつもの所だけでいいんだね?」
三度目の配達に出る前に、ジャンは注文のメモを見ながらオットーに確認した。
毎日配達している店や家の他に、新規の配達先が無いか念を押す。
「ああ、そうだな。全部配達したら、そのまま帰っていいぞ」
オットーは粉まみれの手でカレンダーをめくりながら答えた。
「わかった」
そう言ってジャンはまだ熱いバゲットをいくつも抱えて店を出た。
もちろん大急ぎで配達を終わらせて、昨日の所に金を返してもらいにいくつもりだ。
6階にあるドアは相変わらず少しの隙間を空けて止まっていた。
不用心な気もしたが他に部屋はないし、階段はきしんだ音を立てるから、万が一誰か来ても、すぐ分かるのだろう。
実際、ジャンがノックする前に、リーザはドアから顔を出した。
今日のリーザはきちんと髪を巻き上げて化粧をし、ブラウスとタイトスカートを身につけて、
おまけに踵の高い靴まで履いている。まるで別人だ。ジャンは目を丸くした。
「昨日は助かったわ。おかげで論文も間に合ったし。どうぞ入って」
その声も振る舞いも、昨日とは打って変わって明るく軽やかだ。
開けたドアから漂う煙草の匂いだけは、昨日と変わらなかった。
「どうかした?」
「いや…昨日と随分違うなって」
「ああ、5日くらいずっと部屋に籠もって論文書いてたから。
外にも全然出なかったんだからあんなもんよ。今日はちゃんとしてるでしょ」
「昨日の格好の方が好きかな」
「あらそう?じゃ脱ごうかな。暑いし」
返事のし様がなくて黙っていると、リーザはぽんと靴を脱いで裸足でぺたぺたと歩いていく。
おいで、と手招きされて、ジャンは少し期待外れの顔で部屋に入った。
中は書類や本が積み上がって雑然としていた。所々に吸い殻の山がある。
ジャンは床に落ちた本を跨ぎながら、辛うじて物が乗っていない窓枠に腰掛けた。
「ヴァン・ムスー飲める?さっき買ってきたから、まだ冷えてるの」
リーザが氷の入ったバケツからボトルを取り上げた。ジャンは片手で丸を作ってみせる。
「グラスが割れちゃって無いから、これでね」
渡されたコーヒーカップに、金色のシャンパンがなみなみと注がれた。
そのグリーンのボトルにジャンは何となく見覚えがある。やたら高い酒ではなかったか。
リーザは、と言うと自分の分はジョッキに注いでいる。既に酔っているのか、
酒がこぼれても気にしない風で床に無造作にボトルを転がすと、ジャンのカップに軽くジョッキを当てた。
「乾杯」
リーザは立ったまま、一気にジョッキを空にした。ジャンは半ば呆れた顔でカップに口をつける。
冷たい泡が口の中で弾けて、すっきりとした辛味が心地よかった。
息をついて、窓を眺める。昨日、ドアから見えた窓だ。
周囲の建物より一つ高いところにあるせいか、ここから見える空には障害物が殆どない。
入り口のドアが開いているので、薄く空いた窓から風が真っ直ぐ部屋を吹き抜けていた。
「そうそう、お金返すね。あと、これはお礼」
マニキュアを塗った指が、コインを一枚多くジャンの手に乗せた。
「昨日はおやつ抜きにさせて悪かったね。妹、大丈夫だった?」
「怒ってたよ。俺だって腹減ってたのに、妹抱えて歩く羽目になるし」
昨日のことを思い出してつい愚痴をこぼす。
「妹にも優しいんだ。あんた女の子にもてるでしょ」
「まあね」
否定はしない。すれば大概の女は調子に乗ってからかって来る。
「もっと飲む?」
リーザがボトルを差し出したが、ジャンは断った。
「今日も妹を迎えに行くから、あまり酒臭くなると困る」
「時間は大丈夫?」
「うん」
そう言いながら窓の外を眺めた。教会の鐘が鳴るまで、まだ1時間ほどあった。
「ここ、景色はいいでしょ。空が一面に広がって」
夏空の中に、一筋の飛行機雲が走っていた。
「それが気に入って借りたの。すごく安かったし。でも階段がきつい」
「このアパートに6階があったなんて、昨日来るまで知らなかった」
「ずっと放ってあったみたいよ。郵便も最初は届かなかったから」
リーザはそう言って笑った。ジャンはリーザに視線を戻した。
昨日は随分くたびれた印象だったが、こうして見るとそこそこ美人に思える。
「エッフェル塔に上ったことはある?」
「ないな。パリには遊びに来た訳じゃないし」
「あそこの景色はすごいんだ。パリの街も見えるけど、真っ正面に空が広がって…
すごく近くにあるように見えるんだよ」
「あんたも空、好き?」
そう言われて、ジャンは頷いた。
「俺、大人になったら飛行機乗りになるんだ」
「ふうん。それは筋金入りだ」
リーザも並んで窓枠に腰を下ろす。あの辺よね、と指差した辺りに塔の影が見えた。
「じゃあ、今度連れてってよ」
「いいよ。いつ行く?」
からかい半分の言葉に、素直な返事が返ってきてリーザが意外そうな顔をした。
「うちはパリ祭の後からバカンスに行くから、その前なら大丈夫。バイトは月曜が休みなんだ」
「え、本当に連れてってくれるんだ」
「俺は構わないけど。リーザこそ他に連れてってくれる人はいないの」
「…いない、な。今は。残念ながら」
リーザは床に寝ているボトルをつま先で転がすと、唇をゆがめた。余計なことを言ってしまった、と気づく。
「それはパリ中の男にはラッキーな事なんだと思う、たぶん」
店に来る独身の女性客に、オットーが必ず言っている台詞を真似すると、リーザはぷっと吹き出した。
「あはは、そうか。それならお誘いに乗らなきゃ。じゃあ、月曜日楽しみにしてるわ」
笑いながらぽんぽんと頭を撫でられる。『パリ中の男』にジャンはギリギリ含まれたらしい。
リーザはそのままふらりと立って、キッチンらしい方へと向かう。床のボトルは既に空だ。
自分のカップに残っていたシャンパンをぐいと飲み干す。いつの間にか泡も飛んで、ぬるくなっていた。
少し暑さを感じたジャンは、何気なく手を伸ばして窓を大きく開いた。
途端に強い風が吹き込んで、部屋の中の書類の束をばさばさとなぎ倒した。
「あららら」
振り向くと、新しいボトルとジョッキを持って戻ってきたリーザが、つま先で床に落ちた何枚かの書類を踏みつけて押さえている。
…が、殆ど意味がない。慌てて窓を閉めようとしたが、逆に窓辺に積まれた本の山がいくつか崩壊する。
一瞬のうちに、散らかった部屋が更に惨憺たる状況になってしまっていてジャンは呆然とした。
うろうろと視線を泳がせた後、見上げた先でリーザと目が合う。と、相手はいきなり笑い出した。
「あは、あはははは。あーあ、派手にやってくれちゃって」
「ご、ごめん。俺、片づけるから」
とりあえず手近にある紙を何枚か拾って束ねてみるが、難しい文字が並んでいてどれがどれだかまったく区別がつかない。
整頓はできても、この書類をより分けて元に戻すのは無理だ。
「拾わなくっていいって。どうせ全部捨てるから。あっはっは」
「え」
「論文書いちゃったもん。はは。もう要らない。あ、なんだかこれ、あちこち白くて雲みたいじゃない?ほら」
そう言って床を蹴飛ばすと、何枚かの書類が宙を舞った。完全に酔っている。ジャンは一層不安になった。
「もし捨てるにしても、これは」
「いいよ本当に。今日はお祝いなの」
そう言うと、リーザはソファの上にある本を手で払いのけ、どすんと腰掛けた。
床に散らばる書類の上に、半分開いた本が更に折り重なる。ため息が出た。
「…とりあえず、紙だけでもまとめておくから」
最初に窓を開けてしまった人間としては、少なくともこの部屋を入ってきた時の状態に戻す責任がある、という結論に達したジャンは、書類を拾い集め始めた。酔っぱらいは尚もジョッキを煽っている。
「これだけ景気よく混ざっちゃった書類じゃ、誰が見てももうわかんないわねえ。パーッと捨てちゃおう。あはははは」
投げやりなのか、酔った勢いなのかよくわからない笑い声を延々と聞きながら、
ようやく散らばった紙をひとつに束ねることに成功した。崩れた本の山も、元通りに積み上げる。
「これでいいかな」
振り返ると、リーザはソファに持たれて眠っていた。ジャンは一度起こそうとしたが、酔ったままでは意味がないと思い直して、
近くに落ちていたブランケットを肩にかけてやった。少しもぞもぞと動いたが、目を覚ます気配はなかった。
ジャンはそのまま帰ろうと、そっと部屋を出た。ドアを少し開けたままにするか完全に閉じるかで少し悩んだが、
念のためきちんと閉めることにする。途中で床に引っかかったドアは、閉じるのにかなりの力が要った。
音を立てないようにそろそろ階段を下りきって通りへ出ると、やっと大きく息をつく。途端に暑さが戻ってきた。
帰る前に一度、アパートを見上げてみたが、やはりリーザの部屋はここからは見えなかった。
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