3
翌日、ジャンがバゲットの本数を数えていると、オットーが声をかけてきた。
「新しいお得意先が出来たから、こっちも頼む。夕方の配達をご希望だ」
渡されたメモの住所に見覚えがあった。ジャンが怪訝な顔をする。
「この間、配達に行ったろ?うちのパンが気に入ったんだとさ」
「でも、毎日?」
「うちは再来週から夏休みだって言ったんだけどな。それでもいいって言うんだ。来週分まで全部前金で払ってくれたんだから、忘れるなよ」
オットーは上機嫌だったが、ジャンは少し憂鬱になった。昨日の今日でリーザにはなんとなく顔を合わせ辛い。それで、隣にいたラウルにこっそり耳打ちした。
「ラウル、行かないか?下着姿の女が出てくるぞ」
「え」
ラウルは一瞬目を輝かせたが、すぐに我に返って首を横に振った。
「やだよ。丘の一番上のアパートだろ?坂道と階段ばっかりじゃないか。それに」
色白で丸々と太ったラウルは、白パンのような頬をふくらませながら調理台の上を指さした。丸めたパン生地がいくつも並んでいる。こう見えてラウルは、父親より綺麗な形のパンを作る。
「こっちが全然終わらないんだ。配達はジャンの仕事なんだから、自分で行けよ」
「わかったよ」
そう期待していた訳でもないので、肩をすくめて返事をした。あの後が気にならないと言えば嘘になる。改めて配達の注文をするくらいだから、そう怒っている訳でもないのだろう。そう思いたい。
アパートの階段を上がって、ジャンは唖然とした。
廊下には、紐で括った書類や本が山積みになっている。開け放したドアの前で、本の山に腰掛けたリーザが煙草を吸っていた。
「…どうも」
昨日、要らないと言っていたのは本当だったのか。恐る恐る声をかけると、リーザはゆっくりと振り返って、そして笑った。
「ご苦労様」
リーザは煙草を灰皿で揉み消すと、紙袋を受け取った。その場で開けて、中を覗く。
「色々入ってる」
「バゲットだけじゃお金が余るらしくてね。チーズのキッシュにタルトやサラダも入ってる」
「おいしそう。これが毎日なら、悪くないかも」
リーザは満足そうに頷く。それから、ジャンの不審そうな目に気がついた。
「…あの、これって」
「どうせなら一気に片付けようと思ってさあ。結構頑張ったのよ。見てよ部屋、随分綺麗になったでしょう」
ドアを覗くと、確かに部屋はあらかた片付いていた。改めて見ると、床の半分を占める本以外、最低限必要なものしか置いてなかった部屋なのだと気づく。がらんとした窓際にベッドとテーブル、椅子が1つ、家具らしいものはそれだけだ。窓がやけに大きく見えた。
「お腹空いたし、早速いただこう。あんたも飲む?」
片手にキッシュを持ったリーザが、足下に転がった酒瓶の山から中身がまだ半分くらい残ったシャンパンを掲げて見せる。ジャンは首を横に振った。
「じゃあ、こっち」
傍らに置かれた煙草の缶を示されたので、頷いた。ジャンは並んで本に腰掛けると、慣れた調子で煙草を載せた紙をくるくると巻く。マッチで火をつけると、リーザが灰皿をジャンの隣へ置いてくれた。リーザがもくもくとキッシュを囓る間、ジャンも黙って煙草をふかす。開け放された部屋の奥の窓から背後の窓まで風が吹き抜け、ペーパーバックがぱらぱらとなびいた。
「難しい本ばっかりだな。リーザって医者?」
風で開いたページを眺めながらジャンが訪ねた。本には見たこともない単語ばかりが並んでいるが、所々に入った図で何となく医学書の類だろうと見当がつく。
「あたしが医者に見える?」
「見えない。でもその酒とか、結構金かかってそうだし」
「ああ、これ?」
床に並んだシャンパンの瓶を、リーザは足で転がした。
「医者じゃないわ。医療機関の研究員…だった。もう辞めたけど」
「辞めた?」
ジャンが聞き返すと、リーザは頷きながら残りのキッシュをシャンパンで流し込んで息をついた。そしてジャンがまだこちらを見ているのに気づくと、もう一度ボトルを口に運んでから言った。
「職場に付き合ってる男がいたんだけど、色々あって別れたの。向こうには奥さんもいたみたいだし、今はもうどうでもいいんだけど。それで仕事も辞めちゃった。でね、この間銀行に行ったら、その男からお金が振り込まれてたのよ。返すとまた話がこじれそうだし、そんなお金取っておくのも嫌だから、残らないものに使っちゃおうと思って」
「はあ」
返事のしようがなく、曖昧に頷いた。会って数日の子供にする話とは思えない。
「シャンパン1ダースにキャビア、あとこのパンでしょ。…なかなか使い切るのも難しい」
頭を抱えるリーザを横目で見ながら、ざっと計算してみる。相場がどのくらいかなんて分からないが、それにしても相当な額じゃないかと思う。
「服とか宝石とか」
「形が残るものは嫌なのよ。あいつの金で買ったんだ、って思い出すのも馬鹿らしい」
「教会に寄付とか」
「あ、それは思いつかなかった」
リーザはきょとんとして本の山を眺めていたが、やがて大きく頷いた。「なるほどね」
「仕事辞めて、どうするの」
悩みが解決したようなので、気になっていたことを聞いてみた。
「まだ決めてない。引っ越すか、国に帰るか、何か違う仕事をするか」
「引っ越すの?」
「まだ決めてない」
そう繰り返すと、リーザは残りのシャンパンを一気に流し込んだ。
「さて、と。続きをやっちゃうか」
「この本、下に持っていくなら手伝おうか」
煙草を灰皿で押し潰すと、ジャンは周囲を見回した。これだけの本を1階に下ろすだけでも相当大変そうだ。
「あ、いいの。医学書専門の本屋さんに連絡してある。お金は要らない、って言ったら、ここまで取りに来てくれるって」
「これ全部?」
「欲しいのあったらあげるわよ」
そう言われて、手元にあった雑誌をぱらぱらと捲ってみたが、ジャンにはさっぱり読めなかった。リーザがその雑誌を受け取って開いた。一部分だけが随分読み込んであるらしく、波打ったページのあちこちに書き込みがされている。
「私は免疫の抑制を調べてたんだけどねえ…うん、この号は残しておこうかな」
そっと雑誌を閉じると、窓枠に立てかけた。ジャンは首を傾げて雑誌の表紙を見たが、何かの専門誌ということしか分からない。かろうじて一番大きく書かれた「アイザック・ギルモア」という人名だけは読める。
「これは研究発表なんかを載せる雑誌。このレポートね…この人若いんだけど、すごいのよ。どう言えばいいかな…ジャンは空、好きでしょう」
ジャンは頷いた。リーザは少し考えてから、続けた。
「空を飛ぼうと思ったら、飛行機に乗るでしょ。この人はそうじゃなくて、人間がそのまま空を飛ぶような、そういう発想をするのね。わかる?」
「全然」
「即答するわね」
「人間は飛ばない。っていうか、飛んだらそれは人間じゃないと思う」
「そうか。それもそうね」
リーザは笑った。
「それに俺は飛行機が好きだから、」
人間が空を飛ぶために機械を作る事がいいのであって、人間を飛べるように作り変えるのは根本的に違う。そう伝えたかったが、上手く言えなくてジャンは黙ってしまった。リーザは褒めるが、その考え方は自分には受け入れられない気がする。
「まあ飛ぶってのは極端な例えだけど、天才だわ。どうせなら、こういう人と仕事したかったわね」
立ち上がりながらそう言うと、リーザは空になったシャンパンのボトルを蹴飛ばした。ボトルは転がって廊下の端に積まれた本の山にぶつかり、その拍子に上にあった封筒が微かに揺れた。
「あ、そうそう。ねえ、パン屋さんてかまどあるわよね?これ焼いて貰えないかな」
リーザは封筒を手にとって、ジャンに見せる。真新しい茶封筒は、3センチほどの厚みがあった。
「自分で焼けばいいんだけど、キッチンで焼ける量じゃないし、暑い中で焚き火ってのもなんだしね。これだけはきちんと焼き捨てたいのよ、お願い」
「大丈夫だと思うけど…」
封筒を受け取って眺めてみた。触ってみる限り、中は紙だけのようだ。
「あ、別に変なものは入ってないから。ジャンなら中を見てもいいわよ。それは私の研究用の資料だから、関係ない人にはどうでもいいものなんだけど、でも絶対焼いて欲しい」
そう言われて開けてみたが、確かによくわからないシャーレの写真やメモばかりが詰まっていてジャンにはどうでもいいものだった。が、リーザには大事なものなのだろう。封筒を元に戻すと、ジャンも立ち上がった。
「焼けばいいんだね?店がダメだったら、うちの暖炉に入れて夜中にでも焼いとくよ」
「うん、それでいいわ。じゃあ、頼むわね」
不意に肩に手が乗せられたと思うと、ジャンの右頬に軽く唇が当たった。一瞬だけ濃いムスクの香りが漂い、あっという間に散った。リーザはジャンの頭を二、三度撫でて笑うと、軽く小突くように突き放した。「じゃ、また明日」
「…じゃあ」
ジャンは封筒を持った手を軽く上げると、駆け足で階段を下りた。そのまま3階まで下りると立ち止まって、なんとなくむず痒い右頬に触れた。
女の子とキスをするのもされるのも別に珍しいことではないが、ムスクの香水をこんなに近くで嗅いだのは初めてだった。
何となく浮かれた調子でアパートを出たところで、声をかけられた。
「君はこのアパートの子かね?ここの窓は5階分しかないようだが」
顔を上げると、帽子を被った体格の良い中年紳士がメモを片手にこちらを見ていた。尋ねられた内容が一瞬わからず、ジャンが首を傾げると男は口ひげをもぐもぐさせて言った。
「ここらへんで6階建てのアパートを知らないか…もしくはエリザベータという名前の女だ。この辺りに住んでいるらしいが、心当たりはないかね?」
ジャンが首を横に振ると、男は軽く舌打ちをしてジャンの頭からつま先までを眺めた。一瞬だけジャンが持っている封筒に目を留めたが、すぐ何か納得したように頷いた。多分、この暑い中をスーツ姿で歩くような髭の男が探している相手と、自分はどう見ても接点がなさそうだと考えたのだろう、とジャンは思った。男はもう一度アパートを眺めるとメモを握りつぶし、もうジャンの事も忘れたかのようにそのまま歩き去った。
長い階段を下りているとき、不意に「エリザベータ」の愛称は「リーザ」ではないのかと思い当たった。「アパートの6階に住むリーザ」なら、たった今自分が会っていた相手だ。立ち止まって振り返ったが、もう男の姿は見えなかった。
店へ戻る前に、ジャンはフランソワーズを迎えに行った。ここからならそちらの方が近い。妹の手を引いて二人でパン屋へ向かうと、店はもう閉めていた。中にオットーの姿はなく、ラウルが一人で片づけをしている。フランソワーズが元気良く挨拶をした。
「こんにちは!」
「あ、フランソワーズ。久しぶり」
「いい匂い」
きょろきょろと辺りを見回すフランソワーズを置いて、ジャンは店の奥へ向かう。オーブンを指さして、ラウルに尋ねた。
「これってまだ火、残ってる?」
「ついさっき落としたところだけど」
「こんなの入れて焼いてもいいか?」
ジャンが封筒を見せると、ラウルは首をひねった。
「それ、紙?灰が飛び散るから…あ、でも今日の分は終わったから大丈夫か。今だったらそのまま放り込めば、余熱ですぐ火がつくよ。父さんに見つかるとうるさいから、早くしなよ」
「うん」
素早くオーブンの扉を開けると、封筒を放り込んだ。火かき棒で奥へと押しやると、あっという間に火が燃え広がった。
「後で灰をならしておいてくれよ…フランソワーズ、余ったタルトがあるけど食べる?」
「食べる食べる!」
ラウルに声をかけられたフランソワーズが飛んでくる。ラウルは籠に入ったタルトを取り出して並べながら説明している。
「これがチェリー、フランボワーズ…こっちは僕が作ったんだよ」
「おいしそう。お兄ちゃんもこんなの作れたらいいのに」
「お前が作れよ。母さんにでも教わって」
タルトに齧り付く妹を横目で見ながら、ジャンはオーブンの蓋を開けた。くすぶっている黒い灰をかき混ぜると、燃え残った写真に再び火がついた。そのまま全部が灰になるのを確認すると、周囲の炭とよく混ぜて舞い上がらない程度に細かくする。
「何焼いたの?」
ラウルがタルトを片手に後ろから覗き込んだ。ジャンはすっかり混ざった灰を見せると、オーブンの蓋を閉じて鍵をかける。
「頼まれ物。なんか大事な書類だって」
「ふうん。あ、これジャンの分ね」
興味なさそうにオーブンの鍵を確かめると、ラウルは持っていたチェリータルトをジャンに差し出した。それから思い出したように尋ねてきた。
「ねえ、新しい配達先の女の人って今日も下着姿だった訳?」
「今日は違った」
「なんだ…ジャンが言うからてっきり」
ジャンにつま先で膝下をつつかれて、ラウルは口を開いたまま固まった。タルトにかぶりついたままのフランソワーズが目を丸くしてカウンターの向こうからじっとこちらを見ていたが、二人の視線に気がつくと横を向き、もくもくと口を動かした。
「でも、それなら配達に行かなくて良かった」
ラウルが調理台を片付けながらぼそっと言う。ジャンは指先で右頬を擦った。
next comming soon.
<
BACK