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幕が下りたばかりの舞台裏は、興奮に包まれていた。
私は何人かの少女達と押し合うように、楽屋の方へと駆けていく。淡いピンクのチュチュがちくちくと重なり合って揺れていた。
楽屋の入り口にはそれぞれの友人や家族が待ちかまえて、少女達にこれでもかと花束を持たせる。私の前には、ピンクと白の薔薇の花束を持った青年が立っていた。
あの、月夜の彼だった。
二言三言話しかけてくるが、周囲が騒がしいのか私には何も聞こえない。首をかしげてみせると、彼は私の耳元に顔を寄せて何事かを囁いた。やっぱり何も聞こえない。
そこで私は、これが夢なのだと気づく。夢なら何も聞こえないこともあるのだろう。私が頷いてみせると、彼は笑って頬に軽くキスをして、花束を渡してくれた。
笑うと少年のような表情になるのね、と私はぼんやり思う。
とても鮮明な夢なのに、初めて見る風景のように何の記憶も呼び起こされなかった。だとすると、これは私が失った記憶ではなく、願望か何かだろうか。
夢を見ながらこんな風に冷静に考えている自分に気がつく。
そうだ。これは私の記憶ではない。何故なら、
………………
真っ暗闇だ。何も見えない。
いいえ、見えないのではない。私は「闇を見て」いるのだ。
これが正しいのだと私は納得する。
何故なら、私の目はもう無くなってしまったのだから。
少し出かけてくる、と言うとお父様は私に付き添いを呼ぼうとした。断るのは難しそうだったので、正直に人と会うから必要ない、と言うと驚いた風だった。
「誰じゃ?どこの、どういう人なんだ」
根ほり葉ほり聞こうとするので、パーティで会った人だと答えると納得してくれた。
「うむ…あのパーティに参加した人間なら、身元のはっきりした者ばかりだから…しかし、初対面も同然の人間じゃろう?二人っきりで会うというのはどうも感心せんな」
「でも、この別荘は知らない人ばかりよ?私が知らないのは仕方ないとしても、私のことを知らない人ばかりだわ。自分からお友達を作るのでないと、知ってる人なんていないもの」
「…そりゃ、そうじゃがな…」
お父様は、怪我をした私のためにこの田舎の別荘を買ったのだと言っていた。使用人も新しく雇った人ばかりなので、この小さな町で私を知っている人はお父様たった一人だ。記憶を失ったことを気にする必要がないのはいいが、不安が消える訳ではない。お父様が教えてくれる「私」の話だけが自分を知る手がかりなのだ。だから、彼が私の事を知っていると言った時、とても不思議な気持ちになった。
「やあ、今日は元気そうだね。顔色がいい」
彼は私を見るなり、そう言って笑った。笑うと大きな目がくりくりとして、本当に少年の様だ。
「こんないい天気だもの、外に出る方が気持ちいいわ」
広い公園をゆっくり並んで歩く。入り口の方は整備されていたが、奥へいくと自然のままの森だった。
パーティの後、私は彼に連絡先を教えておいた。
好意を持ったせいもあるが、彼が私を知っている、と言ったことが気になっていた。
私は彼に名前を尋ねた。彼はしばらく考えたあと、
「J、でいいよ」
とだけ言った。
良かったら覚えている限りの話を聞かせて欲しい。私はそう言って約束を取り付けた。
木漏れ日を浴びて、小さな花があちこちに咲いている。スミレ、スイセン、ムスカリ…と分かる限り花の名前を呼んでみた。
「花の名前は覚えているのよね。不思議だわ」
「どこで違うんだろうね。自分の事だけを忘れる人がいるなら、花の名前だけを忘れる人もいるのかも」
「それも記憶喪失って言うのかしら」
「あ、だったら僕も記憶喪失なのかも。花の名前なんか全然分からない」
「それは最初から知らないんでしょう」
そう言うとJは声をあげて笑った。ピンクと白の薔薇くらいは分かるでしょう、と私は思う。
大きな木の下にあるベンチに並んで腰掛けた。と、Jが思いだしたように持っていた封筒を開けた。
「そうそう、この間の舞台の。何か思い出せればと思って」
Jが取り出したのは、薄いパンフレットだった。バレエの発表会のプログラムらしく、中には演目と出演する少女達の写真がモノクロで印刷されていた。私はぱらぱらとめくってみた。
「僕が見たのは、たぶんこれ」
Jが指さした先には、大写しになった舞台の写真が載っている。大勢の少女達が集まってポーズをとった集合写真だった。様々な衣装に身を包んだ少女達が、澄まし顔で立っている。左端に並ぶ10人ほどが来ている衣装は、夢で見たものと同じ形だった。私はよく見ようと首をかしげた。
「なんとなく、覚えているかもしれない。夢で見たような気がするわ」
「それなら思い出せるかもね。君は可愛かったよ、本当に」
私はページをめくった。個別の少女の写真を眺める。中に、私の名前と写真が載っていた。
「色がついているわ」
「舞台を見たあと、モノクロだと物足りない気がしたんだ」
少し照れたようにJが言う。私の写真と、あと何点かの写真にも絵の具で色がつけられていた。
「あの頃、そういうポートレートが流行ってたんだよ。でも今見るとへたくそだな」
「色が全然違うわよ。あれはピンク色のチュチュだし、それに」
笑いながらパンフレットをひっくり返してJに見せた。髪は黄色、瞳は茶色、衣装は黒に塗られている。
「そうだったかな」
「あなた、あまりバレエに詳しくはないのね」
そう尋ねてみると、Jはあっさり認めて首をすくめた。
「うん、どちらかと言えば苦手だね。何だか上品過ぎて窮屈だ」
「でも私が出た舞台は見てたんだわ」
そう言うと、Jはふと写真から目を反らして下を向いた。
「…知り合いがバレエをやってたから」
やってた、という言葉が引っかかって、私はそれ以上尋ねる事はできなかった。
過去形を使われたその知り合いは、一体どういう人なのだろう。
「君、もしかして目が悪いの?さっきから少し首を傾けて見ているね」
話題を変えるようにJが訪ねた。
「え?ああ…事故の時、目を痛めたみたいなの。それもよく覚えてないんだけど。ほら、右目が少しだけ、ブルーの中に茶色くなってる部分があるでしょう。血か何かみたい。お父様は失明寸前だったって言ってたわ。手術で治ったんだけど、後遺症かしらね。近くを見るときは、こうやって少し角度を変えた方がよく見えるの」
「そうか…。君のお父さん、有名なお医者さんなんだってね」
「医者って言うよりは…研究者、かしら。病院に行くよりは机に向かう事の方が多いみたい。ずっと外国に住んでたんだけど、私が事故に遭ってから戻ってきてくれたの」
私はお父様が言っていた言葉を思い出しながら、そう答えた。自分では分からないのだからお父様から聞いた言葉を並べるしかない。答えながら不安になってきた。
「…って、お父様に聞いたわ」
もしお父様が嘘をついていても私には分からない。信じる以外ないのだから。
「そうだね、君は覚えていないんだった。変なこと聞いてごめん」
「いいのよ」
私はもう一度集合写真をめくって見た。その時、真ん中に立っている黒い衣装の少女が自分だと気づいた。左端のピンクの衣装の中には、自分に似た姿を見つけることもできなかった。あれはただの夢で、記憶とは無関係だったのだろうか。でも金色の刺繍にははっきりと見覚えがある。
「…これ、私…なの?」
「え?…そうだよ。ほら、衣装は黒だったろう?」
指さした先の真ん中の少女を見て、Jは頷いた。怪訝な顔をして私を見ている。私は軽い目眩を覚えて、ベンチに背中を預けた。
Jはそんな私の様子をじっと見つめていた。
帰りは門の前までJが送ってくれた。あれから私はあまり口をきく気にもなれず、気まずい雰囲気だった。
「今日は悪かったね。無理に思い出させようとして、負担をかけてしまったみたいで」
別れ際、Jがそう言って謝った。私は慌てて首を横に振った。
「いいえ、私がお願いしたんだから。あなたは悪くないわ。その…迷惑をかけちゃって」
私はなるべく明るく聞こえるように答える。気まずいまま別れるのは避けたかった。
「でも、これでちゃんと自分が存在していたんだってことが分かってよかった。今まではお父様から教えてもらう話しかなくて、小さい頃のことばかりだから過去の自分が物語の中の人みたいに感じていたもの」
「アルバムなんかはないの?踊りを続けていたら、写真を撮る機会も多かったろうに」
「なんでか、昔の写真しかないの。でも…そうね。お父様に聞いてみるわ。ありがとう、J」
私が手を振ると、Jは笑ってこう言った。
「君の記憶が戻ることを、僕も祈っているよ」
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