" 青の記憶" ▲ BACK TO TOP


3


玄関に入った途端、そこに立っていたお父様と目が合った。
「話がある、来なさい」
それだけ言うと、お父様は奥の書斎へと歩いていく。私は黙って従った。後ろから眺めるお父様の背中は小さく丸まっていて、疲れ切った老人のようだった。
実際、私は随分遅くに産まれた娘だそうで、お父様は髪も髭も白くておじいさまと呼ぶ方がぴったりくる。そう思ってはいけないのだろうけれど、記憶がないという事実が私の中で愛情や遠慮よりも客観性を優先させている。
この人はほんとうに私の父なんだろうか。
最初に会った時、ぼんやりとそう考えたことを不意に思い出した。

「いつかは言わんといかんと思っておったがの…」
まだ夕方だというのに、お父様は書棚からブランデーを取り出して丸いグラスに注いだ。薄暗い書斎の中で、夕暮色の液体を一口啜ってから、お父様はため息のように吐き出した。ソファに座らされた私は、首をすくめて次の言葉を待つ。
「儂はな、ある組織から追われておる」
予想外の話に、思わずお父様の顔を見つめる。澱んだグレーの瞳が私を見返した。
「儂が外国で研究しておった事は話したな?そこは…要するに、非合法の組織じゃった。そこでは普通行われないような実験も、たくさんやった。それについては言い訳しない。実際あそこは、研究に没頭するには最高の設備と環境が整っておった」
アルコールのせいか光の加減か、一瞬その目が恍惚の色を帯びた気がした。
「お前が事故に遭った時、十分な治療を施せる場所はそこしかなかった。だから、私はお前を実験用素体と偽り、自分の研究所へ連れて行って治療した…そして、逃げた。外部の者を勝手に入れることは例え家族といえども、違反じゃからの」
「おかあさまは…それを、ご存じだったの?」
「組織の事か?なら、知らんかった筈じゃ。毎週のように写真を添えて、手紙を送ってくれた。当然、全て検閲されてから届くんじゃが…お前の事をいつも書いていた」
お父様はふう、と息を継いで目を閉じた。
「お前の母さんは、お前と一緒に事故に遭ってな。即死だった。何もしてやれんかった。だから儂はお前だけは何に代えても、大切に守ってやらにゃならんと思っておる」
お父様は、物書き机にある写真立てを手に取った。セピア色に変色した写真の中にはまだ幼い女の子と母親らしき女性、そして今よりは幾分か若いお父様の姿が収まっている。あの子はピンクと黒のどちらの衣装を着たのだろう、と思った。
「分かってくれるかの?」
不意にそう尋ねられて、私は思わず頷いた。お父様の顔がみるみる明るくなった。
「そうか、じゃあ、あの男とはもう会ってはいかん。あれは追っ手じゃ。儂を狙っておる」
一瞬考えた後、Jの話をしているのだと気づいた。私は立ち上がって反論した。
「彼は違うわ」
「パーティの主催者に問い合わせたら、そんな奴は知らんという話じゃった。お前に近づいて儂の事を探ろうとしたんじゃろう。…何を話した?」
「別に大したことは…お医者だとか、それくらいよ。探るならもっと色々尋ねるでしょう」
「一度に訊いたら怪しまれると思ったんじゃろ。また会う約束はしたか?」
私は口を噤んだ。お父様は、子供のように机を叩いて叫んだ。
「お前を治療した事がバレたら、お前まで狙われる!儂は絶対にお前を渡さんぞ!」
その勢いに私はたじろいだ。しかし、引き下がることはできなかった。
「彼は、」
やっとの思いで喉から声を絞り出す。誤解だ。彼は違う。
「昔の私を知ってるって言ったわ。だから話を聞いたの。私が会いたがったのよ」
お父様の手がぴたりと止まる。目を大きく見開いて、私を凝視した。私は続けた。
「だ…だって、変だわ。ここには誰も私を知ってる人はいないし、写真もないじゃない。お父様は私を自分の娘だって言うけど、証拠は?誰でもいい、私の事を教えて欲しいの」
言ってしまってから、はっとした。お父様の顔は蒼白だった。
「…ごめんなさい。私は、不安なのよ」
俯くと、どさりとソファに座り込む。どっと自己嫌悪が押し寄せて、両手で顔を覆った。
「最近色んな夢を見るの…でも、それは私の記憶じゃないみたい。外に出られるようになって何も覚えてない事が本当に不安になってきたわ。これからずっとこうなのかって…」
「おお、おお、可哀想に」
お父様が近づいて、私の肩に手をかけて髪を撫でた。
「お前はあの男に惑わされているだけじゃよ。お前は本当に、儂の娘じゃ。間違いない。ほれ、写真も見せてやろう…お前のお母さんが儂に送ってくれた写真じゃよ。見るのが辛くてしまっておったんじゃ。お前がそんなに不安だとは思っとらんかった」
いそいそと書棚に寄ると、引き出しの奥から手紙の束を取り出して私の膝に乗せてくれる。私は恐る恐る封筒を開いた。何通か開封すると、一枚のモノクロの写真が目に付いた。
”発表会の時の写真です”
そう添えられたモノクロ写真には、あのパンフレットと同じ黒の衣装を着た私が写っていた。
「これ…」
「バレエの発表会のじゃな。何か思い出したか?」
「………」
私が黙っていると、隣に座ったお父様は目を細めて写真を眺めた後、こう言った。
「その男は、デタラメを吹き込んでお前を不安にさせて、付け入ろうとしておるんじゃろう。じゃが安心しろ、ちゃんと儂が守ってやるからの…」
最後は呟くような声だった。
夢の中で、私はこれが夢だとはっきり理解していた。
だから夢の中のJが、私が見たことのない表情で笑い、親しげに頬を寄せるのも不思議ではなかった。
私は、恋に近い感情をJに持っていることを自覚していた。どうしてもJが全く知らない他人のようには思えなかった。失った記憶のどこかに、Jがいることを祈って目を閉じた。
その途端、あの闇が私を取り囲んだ。

いつの間にか眠ってしまっていたらしい。気がつくと、自分のベッドで横になっていた。
起きあがって、シーツの上に散らばったお母様の手紙や写真を日付の順に並べ直す。手紙は大体一週間おきの日付になっていたが、検閲で抜かれたり、逃げる時に無くしたものも多いのだとお父様は言っていた。特にここ何年分かのカラー写真は、殆ど残っていなかった。
それでも写真の少女は自分なのだと納得せざるを得ないくらい私にそっくりだったから、私がお父様の実の娘である事は間違いないのだろう。そう思えば、お母様の顔にも見覚えがある気がした。私の成長を事細かに綴ったお母様の手紙を読んでいると、なにも覚えてない事を申し訳なく感じた。写真をもっと見たいと思って、私は書斎に向かった。
真夜中をとっくに過ぎたらしい家の中は真っ暗で静まりかえっていて、明かりどころか物音ひとつ立てるのがためらわれる程だった。幸いと言うか、目を痛めた私の部屋は同じ一階にあるので、手で壁を辿って行けばすぐに書斎に辿り着く。重い樫の木のドアを開けると、まっすぐ手探りで物書き机まで進みスタンドを点けた。私の周囲だけがオレンジ色にぼんやりと照らし出された。
確か、後ろの棚にアルバムが納められていた筈だ。棚が見やすいようにスタンドを動かしていると、ふと机の横のゴミ箱に目が行った。ぐしゃぐしゃに丸められた紙の束に見覚えがあるような気がして、何気なく取り出して明るい所に置いてみる。バレエのパンフレットだった。
まさか、という思いで皺を伸ばしてみる。何ページかは細かく破り捨てられていた。慌ててゴミ箱に手を突っ込んで、紙片を取り出してみた。
スタンドの明かりの下で、古い黄色やピンクの絵の具が色褪せて見える。

Jが見せてくれた、あのパンフレットに間違いなかった。



 


※モノクロ写真に水彩で色をつけるポートレートが、その昔流行っていたそうで。


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